反戦主義者による軍人伝の最高峰 |
秋 山 好 古 秋山好古大将傳記刊行会編 |
A5判上製函入 750頁 * 価格はHPの在庫検索にてご確認ください |
伝 記 の 名 品 作家 中村彰彦 |
明治から昭和(戦前)にかけては、文芸作品以外の出版物でいうと軍人伝が盛んに刊行された時代であった。筆者は近代軍事史の専門家ではないが、左のような著作物を架蔵している。 小笠原長生『元帥伊東祐亨』、同『東郷元帥詳伝』、中川繁丑『元帥島村速雄伝』、桜井真清『秋山真之』、土屋新之助『立見大将伝』ほか。これらは日清、日露戦争を戦った男たちを主人公とする小説を執筆する際に、史料として用いたのである。 しかし、筆者はこれらを読みながら感に堪えなかった。昭和二十四年(一九四九)生まれの筆者が少年時代に読んだ伝記といえば、エジソン、キュリー夫人、野口英世などを主人公とする偉人伝、あるいは川上哲治、長嶋茂雄、栃錦、若乃花などの半生を描くスポーツ界のヒーローものしかなかった。戦後、GHQが軍人伝の発行を禁じたため、その穴埋めにスポーツ界のヒーローものが多数出版されるに至った、という出版界の裏事情など、田舎育ちの少年には知る由もないことであった。 それからおよそ半世紀、マツノ書店がいよいよ軍人伝の翻刻を開始するにあたり、上記の諸作品ではなく本書『秋山好古』に白羽の矢を立てた炯眼に、まずもって敬意を表さなければならない。というのも本書は凡百の軍人伝と違い、入念な史料の蒐集、関係者からの聞き取り、簡潔で読みやすい決定稿作りがみごとになされた伝記中の傑作だからである。 主人公秋山好古について、『国史大辞典』「あきやまよしふる 秋山好古」の項はつぎのように書いている。 「一八五九〜一九三〇 明治・大正時代の陸軍軍人。(略)海軍中将秋山真之の実兄である。第三期騎兵科士官生徒として、明治十二年(一八七九)に陸軍士官学校卒業、陸軍大学校は第一期生である。(略)日清戦争には、少佐で騎兵第一大隊長として出征し、土城子で有名な白兵戦をやって、驍名をとどろかせた。戦後中佐に進級して、陸軍乗馬学校長に補せられ、(略)この在職四年の間に騎兵科根本の編制 ・戦闘原則・武装・訓練などを研究し『騎兵の秋山』の名が部内に高くなった。(略)三十六年四月、騎兵第一旅団長に転補、この職で日露戦争に出征した。旅団は第二軍に属して、ミシチェンコ中将の大騎兵団にあたり、よく寡をもって衆を制した。特に沙河の会戦・黒溝台の会戦には、非常な苦戦に堪えて、満州軍の危機を救い、その武勲は戦史を飾った。(以下略)」 この記述は本書の内容を正確に要約したものであり、本書が伝記の名品であることを言わず語らずのうちに示している。 さて、フランス留学経験もある「騎兵の秋山」の登場によって、日清戦争当時わずか二個中隊しかなかった日本陸軍騎兵は、日露戦争時には一聯隊三個中隊に規模拡大。そのほかに騎砲兵中隊も編制できるようになった。とはいえこれはまだあまりに兵力少数であり、日本陸軍が太平洋戦争まで歩兵中心思想から脱却できなかったことの一証左でもある。 対して沙河の開戦前に奉天付近に集結したロシアのコサック騎兵は、世界最強を自他ともに認めると同時に、百七十八個中隊二万六千七百騎もの大兵力であった。 明治三十七年(一九〇四)八月三十日から九月四日にかけての遼陽会戦を戦ったのは、日本軍が兵力十二万五千、司令官クロパトキン率いるロシア軍は十五万八千。死傷者は日本が二万三千五百、ロシアは二万に達したが、クロパトキンが北の奉天への退却命令を出したため日本軍の勝利におわった。十月八日から十七日にかけて、奉天の西南約二十キロ、沙河の河畔でおこなわれた会戦は、日本側の死傷者二万五百に対してロシア側は四万二千。騎兵とはつねに敵に接近して地形と配備を確認する役目であるから、このような激戦にあって秋山第一旅団長がいかに心を砕いたかは察するにあまりある。 両軍互いに疲労の極みに達した結果、戦況は「沙河の対峙」と呼ばれる睨みあいに移行するのだが、三十八年一月二日に乃木第三軍が旅順を制圧したことから、乃木第三軍も遼陽付近まで北上進撃を開始した。クロパトキンとしては、その到着前に日本軍に壊滅的打撃を与えなければ勝利を逸することになったのであり、上記引用文中にある「ミシチェンコ中将の大騎兵団」が南下してきたのも大逆襲の先鋒としてであった。 そして勃発したのが、いわゆる黒溝台の戦い。「日露陸戦中最も危険なる一戦」(本書「第九 黒溝台会戦と秋山支隊」)という表現は、まことに正しい。この時の秋山支隊の動きについては本文にゆずり、本書に明記されていないことを補筆しておくと、この時、大山巌を総司令官とする満州軍総司令部は、黒溝台へ南下してきたロシア軍を単なる強襲偵察部隊とみなし、優に八個師団もの大兵力であることを読めなかった。秋山好古がロシア投降兵のことばから大反抗の兆と気づいていたにもかかわらず、である。 そこから満州軍総司令部は兵力の逐次投入という愚挙を犯すことになり、この方面に急ぎ投入された立見(尚文)第八師団は七倍の敵と交錯する事態となっていった。この時にあたって、黒溝台の西方十五キロの沈旦堡を死守した秋山好古は、のちにこういって総司令部の作戦ミスを批判したという。 「あれは総司令部の手ぬかりであったためだろう」 「総司令部の馬鹿野郎」 このような戦略眼の鋭さを克明に描き出すとともに、水筒にいつも酒を仕込んでいて飲みながら地図に見入る姿、南京虫に食われても平然としている古武士ぶり、退役して市立中学校長に就任してからの飾らぬ生活態度などを丹念に描写しつくしているところに、本書のなによりの美点がある。 ところで本書奥付には、発行所秋山好古大将傳記刊行會、発行者櫻井真清とだけあって、著者の名前が欠けている。この点についてマツノ書店の顧客のおひとりY氏はつぎのように指摘しておられる。 「著者は、実は桜井ではないのです。『此一戦』を書いた水野広徳と、その友人の松下芳男の共著です。/水野は幼少時に両親を亡くして伯父に養育されましたが、この伯父の妻が秋山兄弟と親戚で、(略)/『秋山好古』を書いた時の水野は海軍軍人から反戦平和主義評論家に転じていて、松下は評論家の水野に心酔していましたから、『秋山好古』には軍国主義臭がないのでしょう」 Y氏が指摘するように、「軍国主義臭がない」ことも本書の大きな特徴のひとつであり、われわれはこの名著によって伊予松山の下級武士の家に生まれた少年が貧苦に堪えて成長し、やがて功成り名を遂げて故郷に帰ってきて田舎の校長先生として自足した晩年を送る、という清々しい人生に接することが出来る。その意味で本書は、文学的香気を放っているといってもよい。 なお御承知の方も多いと思うが、冒頭に題名のみを紹介した『秋山真之』は、秋山好古の弟で海軍に進み、バルチック艦隊撃滅の必勝戦略を立てた同人の基本史料である。こちらもマツノ書店が復刻するそうなので、両者を併読することをお薦めしたい。そうすれば、秋山兄弟が日本近代史に果たした役割をより立体的に俯瞰できるであろう。 |
伝記『秋山好古』の復刻に期特する 軍事史学会副会長 原 剛 |
日本の代表的将軍であり、日本騎兵の父とも言われた陸軍大将秋山好古の伝記『秋山好古』が、六三年振りに山ロ県周南市のマツノ書店から復刻される。 本書は、秋山好古が亡くなった六年後の一九三六(昭和十)年に、秋山の薫陶・知遇を受けた有志からなる秋山好古大将伝記刊行会によって刊行されたものであるが、古書店での入手も困難な状況の中、今回の復刻は歓迎すべきものである。 秋山好古は、日清戦争・日露戦争で騎兵部隊を率いて奮戦力闘し、日本軍の勝利に貢献し、平時においては騎兵実施学校長・騎兵旅団長・騎兵監として日本騎兵の育成・発展に多大の貢献をし、日本騎兵の父と言われたが、戦後の非戦・反戦思潮の中、一般にはほとんど知られることはなかった。 秋山好古が一般に知られるようになったのは、一九六九年〜一九七二年に刊行された司馬遼太郎の『坂の上の雲』全六巻で、秋山好古・真之兄弟が生き生きと描かれたことによる。その後、生出寿の『名将秋山好古』、野村敏雄の『秋山好古』などが伝記として刊行されたが、これらの刊行本は、いずれも本書を元にして書かれたものである。また、昨年からNHKが特別大河ドラマとして『坂の上の雲』の撮影を始めている状況にあって、秋山好古がいかなる人物であったかを見つめるのに、本書は欠かせない基本的文献となるものである。 本書は、子供の頃「洟垂れ」・「泣き虫」と言われていた秋山好古が、懸命の自己研鑽と努力により、「陸軍大将秋山好古」となり「人間秋山好古」として成長していった過程を、残された資料・関係者の証言などに基づき描いたもので、秋山好古の伝記として最も信頼のおけるものである。 本書は、本紀と別紀からなり、本紀の第一章には出生から小学校訓導まで、第二章には陸軍士官学校入校から騎兵第一大隊長として日清戦争で奮闘するまで、第三章には陸軍乗馬学校(後に騎兵実施学校)長から清国駐屯軍司令官を経て騎兵第一旅団長となりシベリア視察をするまで、第四・五章には騎兵第一旅団長として日露戦争に参戦して奮戦力闘し復員するまで、第六章には騎兵監・師団長・朝鮮駐箚軍司令官・軍事参議官・教育総監を経て予備役になるまで、第七章には松山市の北予中学校校長を勤め永眠するまで、第八・九章には人間秋山としての生き様・エピソードが記述され、別紀には秋山の騎兵に関する意見害・中学校長としての生徒への訓話およぴ秋山の年譜などが掲載されている。 秋山好古は、日本人離れした風貌で日本人的古武士の風格をした日本を代表する軍人であった。質実剛健・勇猛果敢・清廉潔白を兼ね備え、しかも知略に富み、政治的関心を持たず職務に邁進する生粋の軍人であった。「本邦騎兵用法論」などの意見を提出し、日本の騎兵の育成・発展に多大の貢献をし、日本陸軍史にその名を残した。晩年は乞われて地元の中学校長として生徒の教育に精魂を傾けた。まさに至誠奉公の人であった。 現在の日本は、政治家をはじめマスコミ人なども、国民のためと称しながら、自己の名利を秘めたパフォーマンス的な国民に媚びる言動に走り、また男性一般も女性化する傾向にあって、今こそ秋山好古のような生き方を学ばなければならない。 このような折、秋山好古の伝記が復刻されるのは、まことに意義深いことである。大冊なので、全国の多くの図書館に備えられ、多くの人が読まれることを期待する。 |