永らく待望「稀有の伝記」に加え、 「幻の追悼録」でよみがえる弥二の実像
品川弥二郎伝 付・品川子爵追悼録
 奥谷 松治
 マツノ書店 復刻版
   2014年刊行 A5判 上製函入 676頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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 品川弥二郎伝 目次(計 約380頁)
第一章 生ひ立ちと教養
 @生家 A修学

第二章 維新大業の翼賛
 @御楯組 A御楯隊 B薩長同盟の連鎖 C錦の御旗 D脱隊騒動

第三章 外 遊
 @普仏戦争の見学 A独逸留学 B外交官 

第四章 内務省時代
 @萩の乱 A西南戦争 B内治政策の転換

第五章 農商務省時代
 @農商務省の設置 A産業団体の奨励 B共同運輸 会社の顛末 C補遺

第六章 独逸駐在特命全権公使
 @病気静養 A赴任と病気帰朝

第七章 宮中顧問官
 @病気静養と邸宅及農場 A枢密顧問官 B御料局長 C山縣有朋の政治的活動と品川との関係

第八章 内務大臣
 @就任事情 A信用組合法案 B選挙干渉

第九章 在野時代
 @国民協会 A信用組合の設立奨励 B補遺

第十章 終 焉
 @夫人の逝去 A薨去 B蓋棺始末 C没後余事

付録 品川弥二郎年譜     

 品川子爵追悼録 目次(計 約330頁)
■言行彙聞
苦談楼逸事 故品川子爵と水戸 品川弥二郎君 平田法制局長官・品川子と信用組合法 品川子逸事 山縣侯の品川子談 野村靖子・品川子の人物 佐々友房君・品川子との関係 橋本峨山禅師・品川子の奉仏 河瀬真孝・品川子最後の登院 川島甚兵衛君・品川子と西陣織物 仏國土産の菓子一函 品川子の大喝録 品川子爵逸話 品川子と康有為 品川子最後の談片

■痛惜評論(原本にはほとんど筆者名掲載)
藩閥の爲に損せり 鳴呼品川子爵 送故品川子之柩品川子を悼む 品川子の訃音 品川先生の長逝を悲しむ 哭品川先生 嗚呼品川子爵 葬故品川正二位 特色ある人物 天下復た此人なし 品川子薨去に就き得富社主の書 品川先生の書束 品川子爵を悼む ■蓋棺始末
品川子の病気 品川子爵薨す 子爵任官略歴 吊問者 遺骸納棺 仏前哀語 聖恩優渥 勅使来邸 葬儀彙聞 故品川子葬儀 遺骸の火葬 埋葬誌

■弔詞哀誄
■傷悼歌詩


 

  「品川弥二郎研究」の新境地を拓く
   京都大学名誉教授・元京都学園大学学長 海原 徹
 平成元(1989)年、マツノ書店から復刻された村田峯次郎『品川子爵伝』は、明治43(1910)年、品川没後十年を経て刊行された唯一の本格的な伝記であり、品川に少しでも興味や関心を抱く人ならば、誰もが一度は目にするいわば底本的な書物である。

 著者村田は、長州藩の天保改革を主導した村田清風の孫として安政四(1857)年、萩城下に生れた。長じて藩校明倫館に学び、維新後は中央に出仕したが、ほどなく職を辞し毛利家に入り藩史編纂に従事した。品川とは早くから親交があり、その恩恵にあずかることも多々あった。その延長線上で彼は、品川を松門屈指の逸材、郷土の生んだ「最も偉大なる人物」として敬仰して止まなかった。伝記の執筆にあたり、品川の人となり、言行のすべてを肯定的にとらえ、プラス評価することに熱心であったのはそのためであり、内務大臣時代の悪名高い選挙干渉や最晩年の品川が悪戦苦闘した国民協会の活動についても、批判的な見方をあえて封印し、極めて抑制的な言辞に終始した。

 一方、昭和15(1940)年に刊行された奥谷松治『品川弥二郎伝』は、すでにある村田と阿武の二書をべースにしながら、同時期までに世に出た品川に関するさまざまな文献史料を可能なかぎり収集して、その一つひとつに著者独自の意見や評価を加えることを基本としており、民党系の人びとから「国賊民敵品川弥二郎」と罵られ、また郷党の藩閥官僚からも一時孤立した政治家品川を取巻くマイナス的な環境にも目を逸らさず、毀誉褒貶さまざまな評価を踏まえながら、可能なかぎり冷静かつ客観的に見ようとした。

 著者奥谷は、品川没後三年の明治36(1903)年に生まれた兵庫県の人。昭和5(1930)年、東京共働社に入り消費組合運動に従事、戦後は生協運動をリードした昭和の社会運動家であり、出自、経歴いずれを見ても、維新の元勲品川とは何の接点もない。そうした彼がなぜ品川に興味をもち、その伝記作成を試みたのか、一見不思議な感がするが、たまたまこの頃、彼は『近代日本農政史論』(1938年)の研究に従事しており、おそらくこの分野での品川の先駆的な取り組み、功績の大なることを知り、改めて品川をより深く勉強してみようと思い立ったのではなかろうか。本書で、内務省地理局長時代の大規模な地質調査の実施、勧農局長として各地の開墾事業や酪農、農談会の組織、農商務省時代の各種産業団体の奨励、たとえば大日本農会や大日本水産会の立ち上げに多くの頁数を割き、そしてまた、内務大臣として「信用組合法案」の成立に苦心惨憺した経緯を詳細に叙述したのは、農政史や社会運動史の専門家奥谷ならではのものであり、随所に彼独自の新しい知見や評価が織り交ぜられ、きわめて説得力のあるものとなっている。

 よく知られているように、明治3(1870)年8月、品川は普仏戦争見学のためにヨーロッパに派遣された。もっとも、品川が興味を抱いたのは、新政府の期待する軍事研究ではなく、むしろ政治や社会、経済などの領域であり、帰国する同行の大山巌らと別れ、ただ一人留学生としてベルリンに残った。普仏戦争に勝利した新興ドイツ帝国のめざましい発展を見て、これに追いつき追い越すために、わが国は一体何をどのように学ぶべきかを改めて本格的に勉強しようとしたものである。

 留学生からベルリン公使館付の外交官となった品川は、明治九(一八七六)年二月まで実に六年近い歳月、ドイツに滞在したが、この時代に見聞した鉄血宰相ビスマルクの「資本主義的自由主義派に対して、又後には社会主義運動に対して仮借なき弾圧」、「専断で、野蛮で、反動的で且つ、不法」なやり方を目の辺りにし、功罪ふくめて大いに学ぶところがあったもののようである。

 周囲の人びとから、「初一念を徹す人」「直情径行の人なりき、其の所信を断行する場合には決して他と調停的の事をなすの余地を剰さざりき」といわれた品川生来の資質もあるが、かつてドイツで実見した文字どおり上からの政治が、帰国後の品川の出所進退に少なからぬ影響を及ぼしたことは、おそらく間違いない。全国各地に死傷者多数を出した選挙干渉はいうまでもなく、風俗取締りに熱心なあまり、「品川風の侵入」と椰楡された万事に強権発動的な手法も、こうした側面から見ると分かりやすい。いずれも本書の指摘である。
 幕末維新の志士としての品川は、禁門の変で村塾の盟友久坂玄瑞らと鷹司邸に突入、幕長戦争時には京洛に潜み、木戸孝允(桂小五郎)が主導した薩長同盟の陰の演出者として活躍、鳥羽伏見の戦いに初めて登場、幕軍を驚かせた錦の御旗を密かに準備し、またこの頃、洛中洛外で流行った「トコトンヤレ節」の作者としても有名であるが、維新後の中央政界での活躍についてはあまり知られておらず、したがって、その評価もさほど高くない。

 本書を読むと、そうしたこれまでの品川への見方がまったくの的外れ、認識不足であり、とりわけ殖産興業政策における品川の先見的な主張や数々の意欲的な取り組みが、明治国家の近代化にきわめて重要な役割を果たしたことを分かりやすく説明してくれる。
 ところで、「伝記」に並べて復刻される阿武信一『品川子爵追悼録』は、奥谷本のあちこちで引用されているが、どのような内容のものか。以下にその大要を見てみよう。

 編者阿武は、明治15(1882)年、山口県阿武郡三見村(現・萩市)に生まれた。萩中学卒業後、海軍兵学校へ進み、日露戦争に従軍したエリート軍人であるが、病を得て退役、執筆や編集の世界をめざした。前歴を生かした軍事・冒険小説の分野でしだいに頭角を現わし、数多くの作品を発表した。阿武天風のペンネームで知られる『怒濤譚・海上生活』(1912年)や日米未来戦争を描いた『太陽は勝てり』(1930年)などは、その代表作である。品川とは、「追悼録」の序がいうように、禁門の変で戦死した奇兵隊士の父が親しかった関係で幼時から面識があり、その謦咳に接する機会もしばしばあったらしい。

 「追悼録」は、明治33(1900)年2月中旬、品川の重篤を知った阿武がすぐに稿を起したもので、「言行彙聞」「痛惜評論」「蓋棺始末」「弔詞哀誄」「傷悼歌詩」の五部で編まれている。4月5日、京都霊山で行われた納骨、法会の日に完稿、6月6日に刊行された。品川没後、実に三カ月余という異例の早さで世に出た本である。

 故人の想い出や遺徳を偲ぶ「追悼録」の性格上、至る所に美辞麗句が並ぶのは止むを得ないが、本書の特色は、編者の阿武が、自身の意見や評価を主にしたものでなく、全編、この時点で世に出た品川に関する文章や評論の類いをそのまま、何の脚色も加えず収録したところにある。それゆえ、なかには新聞『日本』の「藩閥の為に損せり」のように、品川のいわゆる「長州の三尊」を、「伊藤侯は俗吏の長上、山県侯は軍吏の長上、而して井上伯は博徒の親分」と一蹴しながら、「氏は元と公誠摯実、謂ゆる政治家より一層高等の人物、政治に盡すよりも杜会に盡す方遥かに適当せしなるに藩閥に生まれて藩閥と与に倶せし為め労苦して而して毎に失敗を免れざりき」などという、要するに、享年58歳で没した政治家品川の生涯を失敗の連続であったとする、一見辛口の冷めた見方も収録されており、なかなか読み応えがある興味駸々の本となっている。

 復刻されたこれら二書を併せ読むことで、われわれの前に、「品川弥二郎研究」に関するまた新しい地平が拓け、従前の品川観が大きく改められることは、おそらく間違いない。
(本書パンフレットより)