維新日乗纂輯 全5冊
  日本史籍協会叢書
   マツノ書店 復刻版
   2014年刊行 A5判 並製(ソフトカバー) 共函入  パンフレットPDF(内容見本あり)
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『維新日乗纂輯』 略目次
 第 一 
自石正一郎日記 1
黒沢覚蔵覚書 147
遣倦録 153
壬戊事 231
千屋栄再遊筆記 249
御評議箇条 293
三条西季知筆記 387
七生日録 465
江月斎久坂玄瑞日乗 475

 第 二 
真木直人日記
 天王山義挙日記 1
 忠勇隊日記 19
 使長筑日記 27
 小倉行記 31
 長幕戦争記事 35
 日知録 49
中山忠能手記 157
都日記 189
但馬義挙実記 283
正親町公董旅中日記 297
加藤任重漫録 349
宮部鼎蔵/水野丹後手記 395
 南海日録 395
 水野丹後手記 413
 小林甚六郎来宰日記 425
品川弥二郎日記 461

 第 三 
安政記事稿本 1
永田重三筆記 19
美玉三平経歴日誌25
伴林光平南山踏雲録 53
大和戦争日記 101
酒泉直滞京日記 131
秦林親日記 305
妻木頼矩手記 379
大鳥圭介獄中日記 393
寺村左膳手記 471

 第 四 
小野権之丞日記 1
伊藤和義日記 217
酒井孫八郎日記 305
安達清風日記 391

 第 五 
駒邸警衛日記 1
馬関攘夷従軍筆記 135
伊庭八郎征西日記 217
林昌之助戊辰出陣記 267
覚王院義観戊辰日記 351
寛永寺年行事雑簿 499
 付 載
真如院世譜 537
(解 題)


  『維新日乗纂輯』の勧め
     歴史学者 宮地 正人
 マツノ書店が日本史籍協会編『維新日乗纂輯』全五巻の復刻を考えていると聞き、喜んで推薦文を書くことを承諾した。なによりもまず、推薦者自身がこの『維新日乗纂輯』からこれまで多大の学恩、アイデア、そして発想を得てき続けてきたからである。
 現在も各自治体史まで幕末維新期史料の翻刻がなされているとはいえ、基本的で第一級の史料の調査、発掘、翻刻は、維新史料編纂会という国家的な事業主体のもと、文部省維新史料編纂事務局により事業完成の期限が切られていることもあり、全力を挙げておこなわれた。敗戦までは各華族家では当該期の原史料を保有し、多くの家が家史を編纂しており、史料情報は今日に比べようがないほど豊かだった。編纂会の威光をバックに、事務局とその周辺の編纂関係者は、良質の史料を次々と日本史籍協会叢書の中で翻刻していった。私達が当然のこととして利用している『大久保利通日記』や『木戸孝允日記』、そして幕末政局史では最重要の中根雪江編『昨夢記事』以下の連続する松平慶永関係史料などが、この過程で活字化されていったのである。史籍協会叢書の同人達は、広く史料を調べ、何が幕末維新史研究の上で必要となるかを、当時としては最もよく理解していた人々であった。史料を解読し、じっくりと時間をかけて論文に仕立てることは、期限にしばられ極めて困難なことだったことも、逆に翻刻・出版への意欲を高めていったと私は推測している。他方で当該時期の幕末維新史料集要求もまた、今日とは比較にならないほど強烈なものであった。

 この博捜され、厳選される中で、活字化したいが一冊には分量不足という性格の良質史料が纏められたのが、この五巻の『維新日乗纂輯』となったのである。その中に、既に『安達清風日記』として刊行されていた残部も『安達清風日記(補遺)』として本書に組み込まれた。残部といっても重要度において劣るものでは全く無い内容をそれは持っている。


 幕末維新史研究は、幕府、朝廷、各藩の研究をそれぞれ積み重ね、それを総和すれば政治過程が明らかになる、といったものでは決してない。むしろその逆が正解なのであり、複雑な相互関係を常に全体的に把握する志向と努力の中から次第に明らかになってくるものである。藤田省三は名著『維新の精神』の中で、維新をもたらしたものは「百論沸騰」、「処士横議」「浪士横行」そして「志士」の横断的連結にあると喝破している。

 事態を相互関係の中でとらえさせ、また結果論や常識論で片づけず、その瞬間の「真実性」から人と歴史をとらえさせるものとしては、私は『維新日乗纂輯』はこの叢書の中で随一の史料集だと思っている。収録された良質史料の多角性がそのことを可能にしている。安政七年三月三日の桜田門外の変は、常識的には当日のみの事件で済まされるが、そのプランには薩藩有志集団の脱藩上京が組み込まれていたのであり、「一国の定論未だ纏まらず、之を纏めて人数を繰出すに至るまで惨殺の期を延ばさん事を求」める田中謙助が、延期不能との水戸側主張を呑み、昼夜兼行で西下、二月十七日、下関の豪商白石正一郎宅に着、白石は「江戸の密策承る。路費不足の趣に付、之を弁」(白石正一郎日記)じ、「大急帰国」のため対岸の大里迄船を仕立てさせている。二月二十一日帰藩して同志に告ぐるも結集出来ず、水戸への約束を果たし得なかった慙愧の念が、田中をして突出組の急先鋒たらしめ、寺田屋で上意討に遭わせることになるのである。白石の資金援助と同じ性格のことが、「千屋菊次郎日記」の文久二年十一月の条にある。尊攘志士のパトロンで豪商・文人の板倉槐堂から百両を得ているのである。志士の活動資金出処への留意無しに維新史を論じることは出来ない。

 この寺田屋事件の前提となった島津久光の率兵上京の件にしろ、薩藩だけの動きで論じるのではなく、内勅も無しのこの計画が西国にどのように受けとられていたかの確認が重要となる。「樋口真吉日記」(遣倦録)文久元年十一月条には、早くも「島津氏三万を率いて上京の説あり」と記され、「久坂玄瑞日記」文久二年二月二十五日の処には、北条瀬兵衛の「薩州此度京師にて一発する様子、如何なる事ぞ。天子を擁するか所司代を襲うか」との発言が記録されている。パンドラの蓋があけられ、自重論者だった西郷隆盛自身が下関で事態の急激な展開に驚愕することとなる。


 このように例示していくと際限がなくなってしまう。自分が今日的常識に従い主観的に設定した課題に合うだけの史料を読むだけでは、その狭い枠組にとどまった、結論が当初から見えている論文にしかならない。自分の身の丈に歴史を合致させるのではなく、自分を日本の歴史の中で空前の大激動期となった幕末維新期の色とにおいと雰囲気の中に慣れさせていくこと、今日とは全く異質の世界を知る一見迂遠のように思えるこの作業が、歴史を学ぼうとする者にとってどうしても必要となってくる。私はその最良質テキストの一つがこの『維新日乗纂輯』 だと感じている。

 幕末期鳥取藩京都留守居役として活躍し、慶応二年八月に帰国、藩首脳の因循姑息に絶望して辞職した安達清一郎は明治二年一月、横井小楠の暗殺の報を得て「春初第一番の大快事」と書き、明治四年一月の広沢真臣暗殺を「天罰云云」と記し、七月の廃藩置県を「頓に暴断、諸藩廃藩の命下ると云。諸藩定て藩論沸騰有るべし。嗚呼英雄有為の秋なれども要路無人」と日記に感慨を吐露している。
 このような旧各藩の活動家が各地に存在する中で、廃藩断行旧四藩連合の面々が、いかに舵をとろうとしたのか、その緊迫感の所在を教えてくれることも、本『維新日乗纂輯』の魅力の一つなのである。
(本書パンフレットより)


日記を読み重ねる〜『維新日乗纂輯』の多種多様性   
    学習院大学名誉教授 井上 勲
 歴史をかえりみようとするとき、その時代に書かれた日記を読むことがある。
 幕末維新の激動の時代を生きた人々は、多くの日記を書き遺している。それぞれに激動の忽忙の日々を送りながら日記を書いた、あるいは逆に、激動の時代を生きてきたからこそ、自身を確認するために日々を記録したにちがいない。
 『維新日乗纂輯』はその名の通りの叢書である。日乗は日記と同じ意味の言葉である。日記には日録や日誌あるいは日暦、日譜などの類語があって、日乗もその一つである。だから『維新日乗纂輯』は、幕末維新の時代に書かれた日記を収録した叢書ということになる。
 この叢書には目次の通り多種多様な日記がおさめられている。公家、大名から幕臣に至るまで、薩摩、長州、土佐の雄藩と、因幡、久留米ならびに会津、桑名などの幕末維新の変動にふかく関わった藩の藩士もあれば、志士、処士の日記もある。幕末維新の時代に対象を限るならば、これほどに多種多様な日記が収録されている叢書は他にない。

 日記を、文学作品としてではなくて歴史をかえりみるための素材として読もうとする場合、そこには次の両様の姿勢があるように思われる。その第一は、いわば事件の証言として読む。第二は、筆記の順序にしたがって日記を読み重ねながら、その筆者と時代とを感知しようとする姿勢である。
 この叢書におさめられている日記の筆者は、濃淡の差はあるものの、いずれも幕末維新の激動に生じた事件に立ち会っている。さらに直接に事件の当事者であった例も少なくない。日記に記載されている内容は、その事件について、またとない証言なのである。
 その顕著な例を紹介すれば、伴林光平は天誅組の一員であって、その日記「南山踏雲録には大和挙兵について数々の証言がある。禁門の変の前後の緊張の日々は、久坂玄瑞と真木直人の日記がこれを今に伝えている。寺村左膳は土佐藩の重役として慶応三年の京にあった。薩土盟約が交わされる前後の事情について、左膳の日記には多くのことが書かれている。そして目付妻木頼矩の日記は「戊辰正月七日、大坂城引渡始末」との原題の通りの内容である。

 いかに貴重な証言であるとはいいながら、その限られた部分だけを読むに止めることに飽きたらないし、日記の筆者に礼を失することにもなり兼ねない。
 だから日記を、ひたすらに読む。筆者に寄り添うようにして、日をおって読み重ねる。天候についての記載があれば、これを読む。何処にいて何をしたのか、旅をしているのであれば何処から何処へ赴いたのか、そして誰と会い、どのような会話があったのか、このようなことを読む。事件に立ち会っていれば、それとの関わりの過程と内容を読む。
 日記には、しばしば和歌あるいは漢詩が載せられている。有馬新七の『都日記』は和語を多用した擬古文で綴られていて、長歌と反歌からなる長編が載せられている。大鳥圭介の「獄中日記」には、和歌と漢詩とがちりばめられている。和歌にせよ漢詩にせよ、筆者の決意や糠慨や悔恨のさまざまな心裡の表白であるから、史料としての価値などを問わずに読む。

 このように日記を読み重ねていくならば、その筆者を通じて、時代の雰囲気と鼓動とを感知することが出来る。しばしば追体験と表現される認識の作用である。幕末維新の激動の歴史は、追体験をともなってこそ、より深くより豊かに理解される。
 本書が復刻されることを喜び、これを手許に日記を読む楽しみの時を待ちたい。
(本書パンフレットより)