周布政之助と並んで長州政治家の双璧と呼ばれ幕末激動の我が国政界に「航海遠略策」をひっさげて登場。
時に利あらず、一言の弁解もなく非業の死をとげた、謎の政治家・長井雅楽の全生涯
長井雅楽詳伝
  中原邦平
  マツノ書店 復刻再版 特装版 ※初版は昭和54年(マツノ書店)
   2015年刊行 A5判 上製函入 256頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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長井雅楽詳傅 目次
@緒 論
A世系及家庭
B教育及出身
C世子の保伝
D開鎖論の紛擾と朝廷幕府の乖離
E密勅の降下及戊午の大獄
F雅樂の直目付 雅樂と吉田松陰との関係
G上巳変後の形勢 雅樂の内献白藩論の一定
H雅樂の使命 雅樂の上京
I雅樂の東下及周旋
J雅樂の復命 藩主の東観 雅樂と周布政之助の関係
K藩主の着府 雅樂の周旋 雅樂上京の命
L雅樂の上京 島津和泉の着阪 形勢の激変
M雅樂の東帰 島津和泉の入京  (付伏見寺田屋の変)世子長門守の上京
N藩主上京の準備 将軍上洛の建議 雅樂の周旋 藩内壮士の弾効状 雅樂の待罪 O藩主の上京 雅樂の帰国壮士の激励
P藩論の一変 藩主父子の奉勅  雅樂の罷免及罪案 俗論の紛起
Q雅樂の最期
R結 論 


『長井雅楽詳伝』を推す

  奈良本辰也
 幕末の政治史を語るにはそれぞれの大きな人物がいる。佐久間象山・勝海舟・西郷隆盛・木戸孝允・岩倉具視・一橋慶喜・島津斉彬、もちろん吉田松陰・横井小楠・坂本龍馬も忘れてはならない。
 そして、それらの人物にはこれまで多くの評伝があり、あらゆる角度から考察され叙述されてきた。しかしながら、それらの人物に伍して譲ることのない人物で、殆ど無視されているような傑物に長井雅楽がある。

 長井雅楽は、文政2年(1819)萩の郊外の松本村に生れた。父が四歳のときに亡くなり、藩の規定で三百石が半分の百五十石として相続を許されたのである。百五十石と言えば、高杉晋作の父小忠太も同じ禄高であった。
 明倫館に学んで藩主の側役となったが、その頃からめきめきと頭角を現わし、周布政之助と並んで長州政治家の双壁と呼ばれるほどになった。そして「智弁随一」の名は、まさに彼の頭上に輝いていたのである。

 のちに彼のことを「青面の鬼」といって憎んだ吉田松陰でさえも、周布と並べて最も有能な政治家として認めている。確かに彼は、冷静で理解力があり、屈指の理論家であった。彼の前に出てその議論を聞けば、何人もこれに匹敵するものはないという程に説得力も持っていた。
 長州藩は表高三十六万石の藩である。しかし、その頃になると実高は百万石を超えていたであろう。三百諸侯と言われる諸藩のなかでも五指を出ない大藩であった。しかし、国内における発言力はそれほどではないのである。安政年間の将軍継嗣問題でも、その大きな争いのなかに長州藩・毛利敬親の名は出てこない。

 安政の大獄に吉田松陰が連座して斬られたが、これは直接の原因たる継嗣問題や密勅降下による罪科ではなかった。江戸召喚の理由も「梅田雲浜との関係」と「御所のなかの落とし文の筆者たちの嫌疑」であって、それ以上のものではなかった。全く個人的な問題なのである。
 ついでに言うと、この松陰の江戸送りに使者として選ばれたのが長井雅楽であった。松陰が雅楽を「青面の鬼」と罵ったのはこのときであり、松陰門下の若者たちから仇敵のように憎まれる原因をつくったのが、雅楽のこの任務に由来している。当時、周布政之助も江戸にいたのだから、政之助でも良い筈だった。これが政之助だったらどうなるだろうというのが私の秘かな関心である。

 それはともかく、安政の大獄の報復のように行なわれた万延元年(1860)12月3日の井伊直弼の暗殺で、国内の政治は四分五裂の状態になる。井伊に代わって老中首座となったのは安藤対馬守だった。対馬守は政局の安定を公武合体にありとして和宮の降嫁を奏請し、その実現に全力を払った。婚姻政策という最も古い手が対馬守の政治だった。しかし、新しい時代の到来を予知し、これまでの撰夷一辺倒を転換させて、広ぐ国民の眼を世界に広げようと思い立ったのが長井雅楽である。
 国内の与論は、単なる扇動ではなく、世界に通じる公理によって統一されなければならない。そこで彼は、「航海遠略策」なるものを唱導し、一藩をあげて政局に打って出ることを進言した。徳富蘇峰をして感激の言葉を連ねさせたその大文章は、いま読んでみても素晴しい。

 長州藩は、この「策」を持って藩論とし、朝廷と幕府の間に周旋することを決意した。長井雅楽が責任者として、京都と江戸の間を奔走することになる。朝廷を説いては時の天皇の信頼を得、幕閣に説いては老中久世大和守の賛同をとりつけた。そして、遂には将軍家の同意まで得る。「航海遠略策」は、公武合体の要めとして、ほぼ、九〇%の実現をみるところにまで進んできた。長州藩はこのとき、国内の政局を左右する第一の実力者に成り上がっていた。
 長井雅楽が、そして彼の存在が長州藩の名を一世に高からしめたのである。しかし、「航海遠略策」は、松陰門下の久坂玄瑞をはじめとして、薩摩や水戸など多くの尊援派志士の反対するところであった。

  (中略)

 長州藩は、やがて百八十度の転換を行なって、公武合体策から尊王、撰夷の第一線に立つ決心をするのである。政策の転換は雅楽を切腹に追い込んでゆく。享年45歳。惜しみても余りある英傑の死であった。
 私は、あの時期に一言の弁解を遂げるまでもなく死んでいった雅楽の最期にひどく感動したものである。先年『もう一つの維新』という歴史小説を書き、長井雅楽の一生を文章にしたのも、あの最期の見事さ、いや凄絶さからきている。ところで、私が『もう一つの維新』を書いて長井雅楽の一生をたどったとき、最も良い参考となったのは中原邦平氏の稿本『長井雅楽詳博』だった。三坂圭治氏に教えられてその稿本が山口県文書館にあることを知り、早速に駆けつけて、多くの雅楽関係の史料とともに、それを見たときの思い出は今も忘れられない。

 中原邦平氏の『長井雅楽詳傳』は、氏の毛筆になるのだが、それは優に一冊の本を造って充分なほどにある。大切な史料が随所に散りばめられ、歴史の研究者にとっても十二分に価値あるものである。他にも多くの著書のある中原氏であるが、しかし、この稿はそれらのうちでも最も、力のこもったものであろう。この稿本が今日に至るまで印刷に附せられなかったということは不思議と言ってよい位のものだ。恐らく、松陰門下の反撥を考えての遠慮もあったのだろう。山県有朋などは、最期まで雅楽の叙勲や贈位に反対していたというから、長州ではそうした遠慮が通用したとしか思えない。
 しかし、長州藩の本当の歴史を知ろうとすれば、松陰門下だけではなくて長井雅楽のような人物も忘れてはならないのである。このたび、中原氏の稿本が活字となって世に出るという。私は、この挙を進められたマツノ書店に大いに感謝する。
(本書初版「推薦の言葉」より)