史実考証 木戸松菊公逸事 | |
妻木忠太 | |
マツノ書店 復刻版 ※原本は昭和7年 | |
2015年刊行 A5判 上製函入 630頁 パンフレットPDF(内容見本あり) | |
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『木戸松菊公逸事』 『木戸松菊公逸話』の復刻に寄せて 佛教大学歴史学部教授 青山 忠正 |
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この度、『木戸松菊公逸事』、『木戸松菊公逸話』の二冊が、マツノ書店から復刻される運びになった。ともに妻木忠太の著書で、木戸研究はもとより、明治維新史研究の基本文献のひとつとさえいえるもので、今まで復刻されなかったことが、むしろ不思議に思われる。 この二書が有朋堂書店から刊行されたのは、『逸事』が昭和7年11月、『逸話』が昭和10年4月であった。それに先立つ大正中期から昭和初期にかけ、妻木は、木戸の伝記の決定版ともいうべき『松菊木戸公伝』上下二巻の編纂にあたっていた。同書は昭和二年に刊行される。妻木は、この他にも『周布政之助伝』上下、『久坂玄瑞遺文』など、多くの伝記を残し、防長幕末維新史研究の第一人者ともいうべき人物であった。出身は山口県玖珂郡周東町で明治三年生れ。小学校教師を経て文部省の嘱託となり、大正元年から木戸公伝記編纂所の編纂主任に迎えられ、昭和十年前後、四十代で壮年の頃には、毛利公爵家が設けた毛利敬親・元徳両公伝編纂所の主任を勤めていた。 その妻木だから、木戸に関するエピソードの類は、文字通り山のように蓄積している。といって、それらの多くは、公式の伝記である『松菊木戸公伝』に掲載するような性格の話題ではない。妻木はおそらく、それらを世に公表したくてうずうずしていたのではなかろうか。 このような経過を経て、木戸に関する、それこそ「逸事」を一書にまとめたものが『逸事』である。ただし、妻木は、ただ正伝に書ききれなかった事柄を、羅列したわけではない。書名にも『史実考証』と注記が入っているように、史実として確定できることだけを精選しつつ、安政年間から明治10年5月の死に至るまでを、具体的には『木戸孝允日記』の記事などを史料として補いながら、一貫した筆致で叙述している。 例を挙げれば、中篇「維新後の事蹟」のなかに、「版籍奉還建言後の苦心」(127頁以下)、及び「廃藩置県の遠由と売茶亭の密会」(259頁以下)という項目がある。これらは、もっぱら明治2年6月の知藩事任命が実現するまでの経過、さらに3年11月に、鹿児島・山口・高知の三藩から親兵提供が決定し、その兵力が4年7月、廃藩置県を断行するにあたって、大きな拠り所となったという経緯を述べた部分である。これを読むと、木戸が「版籍奉還」を、大名を解消する方策として重視していたことが、むしろ正伝の叙述以上によくわかる。おそらくは著者の意図をも超えて、『逸事』が、日記や書簡など基本史料の内容を読み込むための助けという役割を果たしているのである。 もういっぽうの『逸話』は、『松菊木戸公伝』編纂に際し、生前の木戸本人を知る人物などに対して行ったインタビューの集成である。妻木は、その対象者の氏名はもちろんだが、インタビューが行われた年月日をも併記している。当然と言えばそれまでだが、間接的に聞いた談話は、それとして明記していることといい、プロの歴史家らしさを感じさせる。人数は約六十人で、著名人としては板垣退助、大隈重信、勝海舟、久米邦武、渋沢栄一あたりが挙げられるだろう。時期は、大正六〜七年が多い。木戸が亡くなってから、ちょうど四十年を経た頃で、生存者からの聞き取りとしては限界の時期であろう。 彼らが語る木戸の姿は、良きにつけ、悪しきにつけ、生き生きとしている。田中光顕(大正7年5月7日)の談話を聞いてみよう(411頁)。 明治2年であったか、東京で木戸公に面会した時に、「世の中は桜の下の角力かな」といふ俳句を書いて貰ったことがある。ところが、この俳句の意が分らないので、説明を請ふた。すると、公の言はるるに、御一新の際に、骨を折って働いた者は、何にもならず、却って骨も折らずに、傍観してゐた者が恩典に與ってをる。恰も之と同じことで、角力に一生懸命になった力士は、勢いで下になって土を食ひ、負けた方は上に向かって花を見るではないか、と、大不平の意があるので、実に面白いから今に之を保存してゐるのである。 木戸は、「御一新」の成果に、実は不満だったのだ。それを言い表すに、この一句に勝るものはない。『逸話』には、このたぐいの話が満載されている。木戸の人物像を知るうえで欠かせない書物なのである。 このような内容を持つ二冊、木戸ファンならずとも、思わず読んでみたくなるはずと思うが、如何であろうか。 (本書販売用パンフレットより。) |
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