洋の東西でテロリズムが横行する今日、かつて治安を守るべく
戦地に赴いた多くの警察官がいたことを教えてくれる本書は、まことに名著の名に値しよう
西南戦争警視隊戦記
 後藤 正義
 マツノ書店 復刻版 *原本は昭和62年
   2016年刊行 B5判 上製函入634頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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■本書は西南戦争における警視隊(警視官で編成した部隊)の活躍を多くの史料を使用して描いた本である。この戦争における警視隊の動向については抜刀隊のイメージだけが先行し、有名な割にはあまり知られていないばかりか、それを本格的に研究した書籍は本書しか無く本書は西南戦史における警視隊の動向を調べる上でまず参照すべき第一級の研究書となっている。
■著者の後藤正義は、警視庁巡査を拝命後三十五年間警視庁に勤務し、警視昇進後警視庁第二機動捜査隊長を最期に退職した警視官である。 著者が本書を執筆した動機は、西南戦争の原因が、大警視川路利良が少警部中原尚雄らに西郷隆盛暗殺を内命して派遣したことにあったといい、本書でも特に一章を割いてこの節が誤りであることが実証的に証明され、目玉の一つとなっている。
■史書として優れた価値を有し、西南戦争研究には常に座右に置くべき基本文献であるが、今では古書市場でも滅多に目に触れる機会のない稀覯本となり、古書価三〜五万円の高値も付いている。来年は西南戦争から一四〇年目にあたり、この節目の年を前にマツノ書店が本書を復刻することは、まことに時宜を得たことといえよう。この機会に多くの読者が本書を繙かれることを期待したい。
 
(歴史研究家・長南政義氏から賜った一文を、本人のご了解のもと、当方でまとめたものです。)

西南戦争警視隊戦記 略目次
序章 警視隊戦記提要
緒言
 本書の構成
 警視隊と別働第三旅団
 警視官の派遣人員
 警視官の武官任命

第1章 警視庁と兵術演習
 警視庁の創設
 警視庁の銃器装備
 佐賀の乱と警視隊
 警視庁の兵術演習
 征台の役
 政府の内外政策
 神風連の変、秋月の乱、萩の乱と警視隊
 新式銃の装備
 警視局の設置

第2章 私学校激派の反乱計画 〜中原警部ら帰県同人の帰郷
 鹿児島私学校
 私学校の勢威の伸長と挙兵準備
 熊本・長崎両県警の鹿児島探偵
 東京における鹿児島不穏の風説
 士道に徹した帰県同人
 帰県の趣意
 帰県同人の成り立ち
 帰県同人達の準備行動
 帰県同人の説得活動
 私学校党の弾薬掠奪事件
 松山信吾警部の鹿児島脱出

第3章 西郷隆盛暗殺謀議事件の捏造  〜薩軍の挙兵
 挙兵名義に必要だった西郷暗殺事件
 帰県同人らの就縛
 拷訊による虚偽の自白強要
 虚偽の口供書作成
 野村綱の自訴と拷問
 薩軍の挙兵と征討令の発布
 鹿児島差遣勅使と護衛警視隊らによる中原以下の救出
 帰県同人らの東京移送
 帰県同人に対する臨時裁判所の審判

第4章 熊本籠城警視隊
 九州派遣警視隊の出陣
 熊本の情勢
 熊本鎮台の沿革
 熊本鎮台の守城準備と県庁の措置
 綿貫、神足両警視隊の熊本入城
 薩軍の熊本城総攻撃
 熊本の党薩諸隊
 薩軍の熊本城長期攻囲策
 鎮台の攻襲偵察
 拠塁対戦(一)
 城兵の段山攻略
 拠塁対戦(二)
 城兵の京町口出撃
 拠塁対戦(三)
 突囲戦
 征討軍の熊本城連絡

第5章 植木口警幌隊
 田原坂
 第一次植木口警視隊
 警視抜刀隊の編成
 田原坂の斬込み
 横平山の戦い
 田原坂陥落
 第二次植木口警視隊
 船島の地名について
 植木・木留の戦い
 戦場の人肉嗜食厳禁の建議
 満田小隊の福岡方面派遣
 吉次峠・木留攻略
 中央突破作戦
 萩追方面の持久戦

第6章 別働第三旅団の熊本進撃
 衝背軍の編成
 衝背軍の八代占領
 八代士族の協力
 鏡・氷川の戦闘
 三月二十三日の激戦
 川路大警視の京阪出張
 川路の武官任命と出征
 別働第三旅団の編成と小川占領
 堅志田・宇土方面進出
 第一次御船の戦い
 熊本城連絡
 衝背軍の入城と正面軍の連絡
 新募薩軍の八代侵襲
 第二次御船の戦い
 城東作戦と第三次御船の戦い
 御船滞陣

第7章 豊後ロ警視隊
 豊後口警視隊の大分出張
 熊本県阿蘇郡へ進出
 阿蘇の農民一揆
 南郷有志隊
 戦機迫る
 二重峠の戦い
 黒川口の戦い、一等大警部佐川官兵衛の戦死
 佐川警部の警視庁奉職
 坂梨滞陣
 中津隊の決起
 退守から攻勢へ
 坂梨嶺の戦い
 阿蘇駐屯から御船転進
 戦跡に建立された豊後口警視隊の慰霊碑等

第8章 征討支軍の鹿児島進駐
 鹿児島城下
 鹿児島進駐部隊の発遣
 進駐部隊の初期活動
 岩村県令の着任
 薩軍の鹿児島襲撃
 鹿児島市民の休出?活動
 帰順勧奨
 人事交流その池
 情報収集活動
 鹿児島北方作戦
 鹿児島南方作戦と別働第三旅団の連絡

第9章 別働第三旅団の鹿児島連絡 川路と陸軍主流派の確執
 薩軍の人吉撤退
 別働第三旅団の出水口出陣
 水俣着陣
 肥薩国境の戦闘
 人吉及び大口進撃の軍議
 山野の敗戦と陸軍主流派の非難
 水俣周辺の戦闘(一)
 陸軍主流派に対する川路の憤懣
 水俣周辺の戦闘(二)
 中尾山・工通の戦い
 戦塵の合間
 五月二十三日の水俣牙営
 矢筈嶽の戦い
 川路の増兵に対する山田の苦言
 熊本隊の矢筈嶽襲撃と工通の戦い
 永良鴻山の戦い
 警視隊の四国派遣
 鬼嶽の戦い
 松尾・上原の戦い
 川路と三浦の悶着
 出水麓の戦い
 山野奪還
 征討軍の鹿児島進撃の軍議
 出水郷薩兵の帰順
 阿久根・川内及び宮之城の戦い
 鹿児島連絡

第10章 宮崎攻略と別働第三旅団の解団 〜川路少将帰京の真相
 川路少将帰京の真相
 川路少将の凱旋
 蒲生進撃
 国分北部の戦い
 都城進撃
 荒磯嶽の戦い
 田辺中佐解団の心慮
 十文字の戦い
 都城攻略
 宮崎進撃
 党薩麩肥隊の帰順
 瞬辺中佐解団の心慮
 宮崎攻略
 別働第三旅団の帰還と解団

第11章 豊後ロ後続警視隊
 薩軍の豊後侵入
 大分県庁の防衛措置
 豊後口第二号警視隊の大分出張
 鶴崎の戦い
 党薩報国隊
 熊本鎮台の豊後出撃
 恵良原の戦い
 藤丸警部の殉職
 豊後口警視徴募隊の出征
 法師山の戦い
 鏡・七里方面の戦い
 竹田町占領
 白杵勤王隊
 薩軍の臼杵占領
 征討軍の臼杵奪還
 三国峠・旗返峠・梅津越の戦い
 征討軍の豊・日国境進出
 三川内方面の戦い
 古江口方面への進撃
 追い詰められた薩軍
 薩軍の可愛嶽突囲
 突囲薩軍への警備配置

第12章 鹿児島警視出張所
 別働第三旅団連絡直後の鹿児島の状況
 県下諸郷の鎮撫活動
 鹿児島警視出張所の開設
 突囲薩軍の鹿児島突入と警視官らの殉難
 鹿児島米蔵警視隊の編成と防衛戦
 西郷の巡査捕縛の檄文と各郷の対応
 征討軍の城出包囲と警視隊の鎮撫活動
 山城出陥落
 戦乱後の警察活動
 薩軍関係者に対する処分
 警視出張所の閉鎖

付録
 「警視庁(局)職員録」よりみた西南戦争前後の幹部一覧表



名著『西南戦争警視隊戦記』の復刻を喜ぶ
   作家 中村 彰彦
 私事を述べることから筆を起こすのをお許しいただくと、私が明治初期の警視庁の動きや西南戦争における警視兵の活動を知る必要に迫られたのは、昭和60年のことであった。幕末会津藩屈指の闘将として知られ、西南戦争が勃発するや豊後口警視隊の副指揮長(一等大警部)として阿蘇で薩軍と交錯した佐川官兵衛の生涯を描く長編小説を書くことになったため、当時の警視庁の組織と動向を頭に入れておかねばならなくなったのだ。

 しかし、当時38歳だった私は『警視庁史 明治編』と中村徳五郎『川路大警視』を読んでいた程度で、この方面の史料にどんなものがあるのか、さっぱりわかっていなかった。しかも私は独学で史伝文芸の世界に入った者だから、こういう場合に教えを乞える先輩や師もいない。

 そこで私は幕末維新史研究の先達で、『鶴ヶ城を落とすな 凌霜隊始末記』の著者でもある藤田清雄氏にどうしたらよいか、と相談を持ちかけた。すると氏は、にこやかに応じて下さった。
「私の友人に西南戦争における警視隊の動きを研究している男がいるから、近々の内に紹介しましょう」
 その「男」が本書の著者後藤正義氏であり、昭和55年10月に警視庁を勇退された後藤氏は日本火災海上保険の顧問をしておられた。お好きだという鳥料理にお誘いして話を伺うと、後藤氏はいった。
「私は今、警視庁草創期に苦労された先人たちについて本を書くことにより長年お世話になった警視庁に少しでも恩返ししようと思っています。その本では佐川官兵衛の最期について触れますので、刷り上がったら一冊進呈しましょう」
 やがて昭和62年10月となり、後藤氏が約束通り送って下さったのがこの『西南戦争警視隊戦記』。四百字詰め原稿用紙にして約2300枚の大作のボリュームには圧倒された。だが、早速熟読するうちに後藤氏は警察大学校の本科と研究科とを卒業しておられるだけに実に史料を読んでいること、熟達の文体の持ち主で、難しく書けばいくらでも難しくなるところをこなれた読み易い文章で著述しておいでであることなどがわかってきた。

 私が『鬼官兵衛烈風録』(現在、日経文芸文庫)を無事脱稿することができたのも、半ば後藤氏の新研究のおかげであったが、今回すでに幻の名著の一冊になりつつあった『西南戦争警視隊戦記』が復刻されるという嬉しい知らせに接したので、改めて本書の構成を眺めてみよう。

「序章 警視隊戦記提要」に後藤氏みずからが解説しているように、第一章警視庁と兵術演習」では明治7年(1874)1月に内務省所属として創設された東京警視庁では非常事態に備え、陸軍士官の指導によって軍事訓練をおこなうことをもって旨とした。同2年2月に佐賀の乱、9年10月に神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が連発して発生したことから知れるように世の中には不平士族があふれていたため、警視官には戦闘参加能力が求められたのだ。

「第二章 私学校激派の反乱計画「第三章 西郷隆盛暗殺謀議事件の捏造」では、西郷隆盛を師として結集した鹿児島私学校の激派の面々が挙兵理由として中原尚雄らの警視官による西郷暗殺計画が挙げたものの、これはまったくのでっちあげだった事実が提示される。実のところ中原尚雄らは私学校党の暴発を止めさせようとして鹿児島入りした者なのに、西郷への刺客とみなされて捕らえられ、ひどい拷問を受けた果てに口述書(自白書)を偽造されたのである。本書は拷問した側とされた側の回想やそれぞれがその後どうなったかという点までが追求されており、この部分までで優に新書一冊分以上の読み応えがある。

「第四章 熊本籠城警視隊」「第五章 植木口警視隊」「第七章 豊後口警視隊」は「章題に明示された方面にそれぞれ分派された警視隊の戦史。いずれの章にも50ページ前後が費され、丁寧かつ読み易く書かれているのが何よりの美点であろう。

「雨は降る降る 陣馬(じんば)は濡れる 越すに越されぬ 田原坂(たばるざか)」(「田原坂」)
 と歌われた田原坂の激闘については第五章をお読みいただきたいが、この方面では薩軍の抜刀斬り込みに対応すべく警視抜刀隊が組織されたことが知られている。本書ではその発案者、実行者から刀剣を集める苦労にまで筆が及んでいるのに驚かされる。後藤氏は各署の刑事防犯課長、捜索第三課課長代理なども歴任されておいでだから、捜査ばかりかこうした調査にも手を抜かないのだ。

 さらに「第六章 別働隊第三旅団」の熊本進撃では、別働隊第二旅団の参謀山川浩中佐(元会津藩家老、佐川官兵衛の旧友)が孤軍籠城戦を続けていた熊本鎮台との連絡に成功したこと、陸軍少将兼大警視として八代に到着した川路利良が別動第三旅団を編成して同鎮台に入ったことなどが語られる。 

 飛んで「第十章宮崎攻略と別働隊第三旅団」の解団では川路少将が明治10年6月28日、病を理由に東京帰還を申請して許された謎が解き明かされる。川路は薩摩人であるため、私学校党からは西郷を裏切った最大の敵とみなされていた。その点を考え合わせると、戦況は好転したとはいえ別動第三旅団を鹿児島へ進撃させては薩軍の敵愾心を煽ることになると薩軍上層部は判断。別動第三旅団を解団することにしたというのだ。
 ここで記述が終わってしまえば定説通りの書き方に終始することになる。だが、後藤氏は警視庁OBだけに、警視官の人少なになった東京では警察活動に不慣れな新規採用の者が相対的に増加し、社会不安の種となりつつあったことも川路を帰京させた理由の一つだ、と指摘することも忘れない。

 つづく「第十一章 豊後口後続警視隊」について注記しておきたいのは3月18日に佐川官兵衛を戦死させてしまった豊後口警視隊の後続として豊後口第二号警視隊が編成され、これには警視徴募隊も加わったことについてである。後者に属する徴募巡査と急雇いの警視兵のことで、二番小隊半隊長警部補として記述される藤田五郎とは、元新選組の一番隊長斎藤一のこと。余談ながらその藤田五郎らが切り込んで大砲二門を捕獲した法師山の薩摩陣地跡は、竹田の岡城址に登れば望見することができる。

 最後の「第十二章 鹿児島警視出張所」は、別働第三旅団に代わって編成された新撰旅団が城山を陥落させるまでを語り、合わせて戦乱集結直後の警察活動を紹介している。薩軍に与して捕縛されるか帰順するかした者は、実に4万3562名。しかし、有罪とされた者はわずか6パーセントの2764名に過ぎなかったという。

 付録として「『警視庁(局)職員録』よりみた西南戦争前後の幹部一覧表」が末尾に添えられ、出征者氏名のほか族籍、官位官職、戦傷・戦死・生還の別までリスト・アップされているのも目配りがよい。洋の東西でテロリズムが横行する今日、かつて治安を守るべく戦地に赴いた多くの警察官がいたことを教えてくれる本書は、まことに名著の名に値しよう。
 ちなみに来年(2017)は西南戦争が起こってから140年目にあたる。
 洋の東西でテロリズムが横行する今日、かつて治安を守るべく戦地に赴いた多くの警察官がいたことを教えてくれる本書は、まことに名著の名に値しよう。
(本書パンフレットより)