維新脇役人物伝の白眉
子爵由利公正伝
 由利正通 編
 マツノ書店 復刻版 ※原本は昭和15年
   2016年刊行 A5判 上製函入 815頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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子爵由利公正伝 目次
第一 若年時代
 出生 名称
 血統 家庭の訓育
 武芸修行 砲術入門
 藩財政の不備を衝く
 小楠の来越

第二 在藩出仕時代
 家督相続 米艦警備
 銃砲火薬の製造
 明道館出仕
 橋本に知らる
 兵科の研鑽
 在府大老井伊の措置に激昂

第三 殖産及び貿易時代
 幕府及び越前藩の財政
 五万両藩札発行の建議
 長崎へ貿易状況視察
 物産総会所の設立
 殖産貿易の成功
 奉行に昇進

第四 藩務鞅掌時代
 当時の国情
 御用人心得拝命
 藩論決定 諸侯召集の建策
 加賀 肥後 薩摩行

第五 幽閉時代
 藩論の一変
 幽閉
 阪本龍馬の来訪

第六 参與時代
 上京 参與拝命
 会計官就任
 伏見鳥羽の戦
 会計基金協議
 五箇条御誓文の起案
 会計元立金の募集
 太政官礼発行の決定
 会計官の焦慮 御親征費の調達
 太政官札の製造
 官吏俸給の支給
 徳川家処分に関する建白
 彰義隊掃討費捻出
 外国貿易の効果
 京阪地方水害救出
 造幣事業の端緒
 太政官札発行趣旨の布告
 銀目廃止令
 太政官札貸付の苦心
 太政官札の流通難
 御即位式御用掛拝命
 神宝神社の建設
 皇太后御座所御造営
 御東幸費の調達金札論の沸騰
 貨幣品位の低下問題
 東京へ出張
 太政官札と国際問題
 辞職 帰郷
 会計基金調達の成果と太政官礼の成果

第七 福井藩政時代
 政体職制の建議
 財政整理
 育英 其他
 改姓 上京(論功行賞に與る)

第八 東京府知事時代
 就任 府制改革
 歳末時の活動
 東京銀行設立案
 銀座市街の建設
 裁判所事務引継 秩禄処分に付発言
 外遊 免官

第九 在野時代
 民選議院設立の建言
 鉄鉱事業の経営
 タールペーパ葺家屋の献納
 神田昌平橋の私費架設
 元老院議官再任 授爵
 板橋閑居と名士の往来
 貴族院議員時代
 有隣生命保険会社社長時代
 史談会に尽瘁す
 八十の寿苑 終焉

第十 春嶽公及び小楠先生と彼との関係

第十一 祖先の跡を討ねて



 維新脇役人物伝の白眉
  佛教大学歴史学部教授 青山 忠正
 この度、マツノ書店から『子爵由利公正伝』が、復刻される運びとなった。由利の伝記としては、亡くなってから七年後の大正5年(1916)には、三岡丈夫(公正の長男)が書いた『由利公正伝』が刊行されていた。発行者は由利公眞、発行所は光融館である。
 それがすでに絶版となり、彼の事蹟が世に埋もれる結果になることを憂えた由利正通(公正の孫)が、伯父三岡丈夫の著書に増補改訂を施し、再び世に問うた。それが、この『子爵由利公正伝』である。書名が紛らわしいのは、以上の事情によるものだ。面白いことに、この本には著者発行の「非売品」と、岩波書店版の二通りがある。内容は同一で、発行日付も同じ「昭和15年4月28日」なのに、後者には正誤表がつく。今回の復刻版の底本は岩波版だが、市販されたのは、おそらく、ごく少部数だったのであろう。

 そのような次第もあって、本書は、いわゆる稀覯本であった。古書市場でもめったに見かけず、現れたとしても、総815頁の単行書一冊としては、異例なほどの高値が付いていた。それだけの需要があったのである。
 由利公正(1829〜1909)、前名三岡八郎といえば、越前松平家の家臣時代から財政家として知られ、安政六年(1859)には物産総会所を設立して、長崎を舞台に外国貿易を推進、越前藩に巨利をもたらし、さらに、明治元年(1868)からは、新政府の参与に召し出されて、もっぱら財政政策を担当した人物である。たしかに、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允らを、維新の主役と見れば、由利は彼らの事業を側面から助けた脇役にあたるのかもしれない。しかし、西郷以下にしても、由利の手腕がなければ、初期の新政府を運営することは絶対にできなかった。

 それというのも、財政基盤が全くないも同然の新政府において、打ち出の小槌を振るように、運営資金を生み出したのは、ほかならぬ由利公正だからである。すなわち、由利は明治元年二月には、太政官札の発行を建議して、実現させた。その発行高は、最終的に三千万両以上に及んだという。これは不換紙幣であり、そのままでは流通するだけの信用の裏打ちがないはずだが、それを三都の豪商などに正金を以て引き受け(交換)させて流通を促進する、という仕組みである。つまり、現代で言う国債に近いものと思えば、大きな間違いはないだろう。

 こういう仕組みを、この時点で考えだし、実行できる人物は、おそらく由利以外にはいなかった。慶応三年(1867)十月、暗殺される直前に、後藤象二郎の命で福井を訪れた坂本龍馬が、当時の三岡八郎と面会して、彼の抱懐する財政政策構想に感嘆し、新政府の樹立に際し、無くてはならぬ人物と推奨したのも、あながちオーバーな話ではない。
 本書が持つ史料としての、あるいは人物伝としての最大の見せ場は、この太政官札の発行に関わる経緯にある。それこそが、明治新政府が成り立つ経済基盤の謎を解明してくれる最大のエピソードだからである。

 だからと言って、本書は、堅苦しい伝記的な研究書というわけではない。むしろ、文章は柔らかく読みやすい。この点で筆者由利正通は、「文体の平易化は動もすれば伝記体としての重厚を欠き」(自序)と謙遜しているが、現代の読者にとってみれば、むしろ大変ありがたい配慮だった。

 その平易な文体のなかに、本書では、由利自身はもとより関係者の談話や、手記・書簡類が豊富に引用されている。これは、著者が近親者ならではの特典というべきだろう。それにまた、本書が刊行される昭和十五年(1940)までには、日本史籍協会叢書約二百冊をはじめ、さきの三岡丈夫『由利公正伝』(1916年)刊行当時とは比べ物にならぬほど、維新関係の史料集の公開が進んでいた。本書は、その成果を着実に踏まえて編纂されたのだ。
考えてみれば、本書は、戦前期の維新人物伝として、ほとんど最終盤に位置する。この時期を過ぎると、太平洋戦争開戦を踏まえて出版事情は急速に悪化し、時局便乗的なきわものは別として、本格的な伝記書は、もう刊行が事実上できなくなってしまうのだった。

 偶然とはいえ、そのタイミングの良さに恵まれ、本書では、由利公正の一生が、その出生から逝去まで、実にオーソドックスな手法で描かれる。書物としての構成は、青年時代、越前藩での財政官僚時代、失脚しての幽閉時代、新政府の参与時代、さらに東京府知事時代という調子で、大きな画期ごとに括られて叙述される。幕末維新の時期に、大きなスペースが割かれているのは、子孫のあいだでも、由利の活躍の舞台は、その時期にあった、という認識が一般的だったためであろう。

 しかし、日本近代史の展開を追うという視点から見た場合、由利公正の軌跡は、一九世紀前半に生まれた一人の武士が、明治の政治家、実業家として見事な転身に成功した事例である。すなわち、由利は明治五〜六年(1872〜73)に米欧に外遊後、明治八年には元老院議官に任ぜられ、明治二〇年(1887)には子爵を賜った上、正四位に叙せられ、三年後の貴族院開設にあたっては同議員に当選、さらに晩年に至るまで有隣生命保険株式会社社長、日本興業銀行期成同盟会会長、史談会会長などを歴任した。時代の動きを読み、その流れに沿った生涯だったといえるだろう。本書は、そのような意味での〈成功者〉のサムライの生きざまを語る書物でもある。
ただし、そのような成功は、濡れ手に粟で手に入ったわけではない。本書の中で、私が一番感動を覚えるのは、明治元年、太政官札を発行し、それを通用させようと奮闘していたころの苦闘のありさまを語る、由利の談話である(二一八頁)。

 当時、金も無く兵糧も無く、上下共、人情大いに殺気立ち、会計の事は耳にする人なく、其の困難はひどかった。数日の間、夜も寝ぬ事ゆえ、疲労して食も通らず、さりとて其の手を放せば大事は破滅と思ひ、苦しきも引入ることも無く、天命に安んずべしと覚悟を決めて執務したが、身体衰弱して血便を催し、歯の根も緩むに至った。実に人知れぬ勉強であった。死に至らなかったのは仕合といふべしだ。

 淡々と語る「実話」には、真実味がこもる。新政府成立の財政基盤を築いた、と書けば、わずか十数文字で片付くことだが、現実にそれを行なうことが、どれほど大変なことか。
 それでも、時には合間にユーモラスな話題も混じる。その意見に反対する者の渦中にあって、由利は敢然として自説を曲げず、そのため、日夜を問わず刺客に就け狙われる身となったが、江戸で剣客として鳴らした斎藤弥九郎が、会計官権判事という役で傍らに控えていたため、さすがの乱暴者も手出しができなかったという。

 神道無念流の師範が、会計官で何の役に立つのだろうと、私は以前からいぶかしく思っていたのだが、由利の護衛とは思わなかった。本書は、このような、はなはだ具体性に満ちた実感を追体験できる世界に、読者をいざなってくれる。そのような意味でも貴重な書物なのである。
(本書パンフレットより)