旧幕臣の後ろ姿への献花
幕末血涙史 付・「幕末史譚 天野八郎伝」
 山崎 有信
 マツノ書店 復刻版
   2010年刊行 A5判 上製函入 566頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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『幕末血涙史』  略目次
 大鳥圭介男の事歴に就いて
大鳥圭介伝の史料/圭介の出生地/大鳥家の祖先/小林五郎兵衛の鉄砲/圭介閑谷黌に学ぶ/圭介中島意庵氏に学ぶ/圭介大阪の緒方塾に入る/圭介江戸に下る/圭介坪井芳洲に学ぶ 圭介江川塾に聘せらる/圭介尼ヶ崎藩主松平遠江守へ抱えらる/圭介更に蜂須賀侯に抱えらる/圭介雲州藩の矢島大三娘みちと結婚/圭介築城典型を著わす/圭介砲科新編、砲術訓蒙を翻訳す/圭介幕府に仕え砲兵指図役頭取となる/圭介順次抜擢され遂に歩兵奉行となる/圭介妻子を佐倉藩士荒井宗道氏に託す/圭介江戸を脱し宇都宮及日光付近に戦う

 南部領宮古湾の海戦始末
榎本釜次郎北海を平定す/釜次郎嘆願書を朝廷に差し出す/釜次郎南部宮古湾襲撃の軍議を開く/回天・蟠龍・高尾の三艦南部宮古湾に進む/三艦暴風に遭遇し各々所在を異にす/回天蟠龍の二艦宮古湾に進む/蟠龍遅れたるため回天独り進む/回天米国旗を下ろし官軍の八艦に当る/舷々相摩し激闘数刻に及ぶ/大塚浪次郎等敵艦に乗り移り奮戦す/笹間金八郎、加藤作太郎等同じく敵艦に移り戦死す。/甲賀源吾戦死す/回天は遂に囲みを脱し函館に帰る/高尾艦は南部領羅賀浦に於いて艦を自焼/船将古川節蔵以下全部謝罪降伏す/中山鉄太郎の経歴/鉄太郎、笹間金八郎と義兄弟の約を結び笹間主計と改む/主計維新後名を洗耳と改む

 旧長岡藩士小林虎三郎事歴(上
小金井権三郎氏によって史料を得る/小林虎三郎は長岡藩四俊の一人/小林家の祖先 小林虎三郎、松陰を佐久間象山に紹介す、高野虎太に学ぶ 長岡藩主崇徳館の助教を命ぜらる 虎三郎文才を発揮す 佐久間象山の門下に学ぶ 虎三郎号を炳文と言う 虎三郎は吉田松陰と共に佐久間の両虎と称せらる/佐久間象山殊に炳文を寵愛す/小林炳文佐久間象山の説を閣老に説く/炳文天下の事を論ずるとて遂に帰国閉門せらる 炳文閉門中病を得る/河井継之助、小金井儀兵衛等藩主を説いて所司代を辞せしむ/明治四年炳文東京に上がる 炳文の実弟雄七郎洋学教授として土佐藩にあり/炳文暫時土佐に滞在す/小林雄七郎第一期の衆議院議員に当選す

 旧長岡藩士小林虎三郎事歴(下)
長岡藩主の歴代/吉田松陰詩を作て炳文を送る/佐久間象山刺客のため殺害せらる/象山より炳文に与えたる一文/小林虎三郎、佐久間恪二郎に対し敵討を止む、/虎三郎病気のため終生娶らず/虎三郎の弟貞四郎家を継ぐ/虎三郎の妹幸子小金井儀兵衛に嫁ぐ/小金井儀兵衛は河井継之助と行動を同じうす/小金井儀兵衛勘定頭として石高の整理を為す/小金井権三郎母幸子を伴い上方見物を為す/幸子佐久間象山先生の展墓を為す/小金井権三郎氏政治上の犯罪にて入獄/権三郎氏衆議院議員となる/権三郎氏の令弟良精医学博士と為る/良精博士の令弟陸軍歩兵少佐小金井寿衛造旅順に戦死す/求志洞遺稿として炳文の遺稿出版/炳文の著書四書章句、集注題疎、小学国史、興学私議、翻訳察地少言、泰西兵銅一班、野戦要勢通則等あり/炳文/上州伊香保温泉に於いて病を得帰京後死す

 幕臣大塚賀久治の事歴
榎本釜次郎の自殺を止めたるは石川治兵衛にあらざる事/講談倶楽部の誤謬を弁ず/大塚賀久治の幼時/賀久治幼名大三郎その後霍之丞と改む/霍之丞、朝比奈倉造に就き武道を修む/―(以下霍之丞、)免許皆伝を得る/―京都守護職のため京都に上がる/―鳥羽、伏見の戦に加わる/―彰義隊に加わる/―炭屋文次郎宅に於いて官軍に囲らる/―多田薬師堂の縁の下に隠れ僅に免る/―小石川の住宅に帰る/―榎本の率いる長鯨艦に投ず/―北海鷲の木に上陸し各地に転戦す/―佐野豊三郎の不義を責む/豊三郎遂に割腹して其の責を負う/維新後大塚賀久治その他の有志者豊三郎の墓碑を建つ/榎本釜次郎衆に代わりて割腹せんとす/霍之丞榎本の手にする白刃を握りこれを止む/霍之丞左手三本に負傷し鮮血淋漓/霍之丞名を賀久治と改め開拓使出仕となる/賀久治官を辞し榎本及び北垣氏の北辰社差配となる/榎本武揚氏常に大塚賀久治を保護す/朝鮮事情の草稿/花房子爵の談話/榎本氏割腹せんとしたる当時の短刀/賀久治六十三歳にて病没す/賀久治の四男光治氏家を継ぐ/賀久治の娘わか子弁護士本田桓虎氏に嫁ぐ/花房子爵の書面/大塚賀久治の事

 彰義隊顛末
彰義隊の檄文/雑司ヶ谷鬼子母神堂境内茗荷屋の会合/伝通院内処静院の会合/四ツ谷鮫河橋円応寺の会合/浅草本願寺にて尊王恭順有志会と称す/渋沢成一郎彰義隊頭取と為る/彰義隊上野に移る/彰義隊の組織成る/西村賢八郎の隊士薩藩士三名を斬殺す/大村益次郎上野を白昼攻撃することに決す/本多敏三郎落馬負傷こと/天野八郎は春日左衛門及び小林清五郎と山外を巡視す/静寛院及び天璋院の使者来ること/丸毛靭負諸門へ軍令を伝う/小川椙太及花俣鉄吉谷中口に奮戦す/根津方面に於ける肥前藩の兵敗走す/中村登城之助谷中門外の家屋を焼く/池田大隅守神祖の御影を守護す/酒井宰輔黒門口に勇闘奮戦す/西郷吉之助戦争実況を報ぜし書簡/天野八郎諸門に下知を伝う/八郎山王台に於いて大砲を指揮して大いに戦う/黒門口敗れ酒井宰輔戦死す/大久保紀伊守弾丸に中たりて戦死す/八郎及び丸毛靫負等三河島方面に脱す/輪王寺宮根岸の里に至る/八郎は丸毛靱負等と道灌山を越え音羽護国寺に至る/護国寺に於いて各々自由行動に決して散会す/山王台彰義隊戦死者墳墓の由来/彰義隊戦死者人名/輪王寺宮東叡山御退去

 天野八郎小傅(上)
天野八郎は始め大井田林太郎と称せしこと/八郎の生家/八郎江戸に滞在すること/八郎帰郷の後黒瀧山の通梁禅師に就き禅学を修む/八郎信義共済の目的を以て堪忍講を組織す/八郎山田屋常次郎を懲すこと/八郎再び江戸に至り常次郎を訴ふること/八郎古狸を捕ふること/八郎兄大助と共に増水したる滴川の丸太橋を渡ること/八郎黛治左衛門と烏鷲を闘はすこと/八郎賭博喧嘩の和解書作成のこと/八郎水雷術様のものを発明すること

 天野八郎小傅(下)
天野八郎文章巧にして又漫画を能くす/天野と改姓の事由/八郎廣濱家の養子と為る/斃休録/八郎炭屋文次郎宅にて捕縛せらる/八郎捕縛前榎本釜次郎に面接す/八郎澁澤成一郎と議合はず/八郎水雷術の模型を作る/八郎の墓碑建設

 最上徳内の事歴に就いて
安田子行の事/子行妹秀子最上徳内の妻となる/徳内数学及び測量の技を学ぶ/徳内本多利明の門に学ぶ/徳内蝦夷地の沿岸を経て千島に向かう/徳内幕府の命により蝦夷地を巡察し得撫に至る/徳内再び幕府の命を帯びて樺太を探険す/徳内の病没

 間宮林蔵の経歴
間宮林蔵の出生地/林蔵始て樺太の孤島なることを発見す/林蔵間宮海峡を横切り韃靼海峡を下る/林蔵満州官吏と会見し筆談を試むること/林蔵へ正五位を追贈せられしこと

 高田屋嘉兵衛の事歴
高田屋嘉兵衛死者の読経を為すこと/嘉兵衛の出生地/嘉兵衛回漕を業として資産を造りしこと/嘉兵衛松前に通商すること/嘉兵衛幕府の募に応じ国後に至る/嘉兵衛官船を領し択捉に往来す/嘉兵衛近藤重蔵に会すること/嘉兵衛露人に捕らえられること/嘉兵衛の妾日本船にて露艦に至る/露艦長嘉兵衛の妾を優遇す/幕府嘉兵衛の功を称すること/嘉兵衛病没す

 下曽根信敦伝
下曽根信敦は初め金三郎と称す/信敦の祖先/金三郎中島流報術の奥義を窮む/金三郎高野長英を邸宅に潜伏せしむ/下曽根、江川の両名高島より砲術を学ぶ/金三郎江川太郎左衛門と謀り高島の冤を訴う 信敦病没す

 友成安良の事歴
友成安良の祖先/安良の生立のこと/幕府方の諸文書/安良の長男友成求馬戦死/幕府大野の一戦に長兵を破る/安良船艦に乗込み砲戦を為す/安良江戸に到る/安良江戸を発し三州赤阪駅に到る/安良再び江戸に帰る/安良純忠隊を組織し上野に屯す/安良彰義隊と共に上野に防戦す/安良戦い破れて上野を脱す/安良渋沢成一郎の振武軍に投ず/安良再び戦いに敗れて会津に奔る/安良会津城に入り防戦す。/安良会津を出で、松島に来り榎本の軍艦に乗り込む/安良弁天台場にて砲戦す/安良敗戦負傷す/五稜郭陥落後榎本以下軍門に罪を請う/安良五稜郭陥落後遠州浜松に謹慎す/明治三年二月安良赦免せらる/安良北海道に移住し榎本子爵の所有地を管理す/明治二十四年二月十日安良逝去す/小林虎三郎記功碑

『天野八郎伝』  略目次
天野八郎の出生及教育/笈を負うて一度江戸に遊ぶ/父の病死/望を失ひ郷里に歸る/撃劒を練習し又韻事に耽る/黒瀧山に登り勉學す/叔父の病死同人の養子となる/堪忍講を起す/山田屋常次郎を懲す/志を抱いて二度江戸に往く/山田屋常次郎を訴へんとして名主に説く/三度江戸に出づ/名主に代りて常次郎を訴ふ/大助惣代と爲つて更に常次郎を訴ふ/森吉等の暴擧/岩戸村の五組/事件落着す/八郎狢を退治す/八郎の剛膽/烏鷺の戰ひ/元服祝の句/慈眼寺の柳/博徒の喧嘩和解/手拭への俳句/龍栖寺の制札/水雷術を發明して老中に上書す/下手將棋の著述/老母を伴ひ江の島に參詣す/江の島道中出たらめ記/姓を天野と改む/醫師某の談話/廣濱家の養子となり名を八郎と改む/廣濱家を辭す/小坂鑛山用達の周旋を爲す/奇策能く損失を免る/八郎酒井家廻米の棟梁たらんとす/天野八郎の墓碑/母及び兄との訣別/彰義隊に就ての書面/慶喜公の大政奉還/慶喜公の下阪/伏見鳥羽の戰爭/王師の東征/慶喜公の恭順/江戸城の明け渡し/彰義隊の會合/上野の戰爭/八郎の捕縛/斃休録/八郎の入獄/八郎の病死/八郎の遺墨/阿部杖策の監禁/八郎西城攻撃を計る/明石屋の會合/了寛の密告/八郎開陽艦に至る/八郎木下福次郎及上原仙之助を信用す/彰義隊の演劇/丸毛靱負を八郎に讒す/八郎阿部杖策に金作を命ず/八郎成一郎と議協はず/八郎毒煙を製す/八郎土井太郎を説く/鶴の馳走並に裏金の陣笠の話/八郎胡摩の蠅を退く/茂木欣八の實話/水雷船/三八郎/八郎の風流/八郎よりさがみや宛の書簡以下十數通/八郎の馬丁熊吉の事/八郎の下婢ふじの事/石塔の由來/現在の石塔/碑文/八郎の碑文建設者/本多晋の和歌/彰義隊琵琶歌/山崎有信の祭文/關孫市の祭文/本多晋の和歌/佐藤量平の祭文/茂木松次郎の祭文/竹林濱二の天野八郎大人の靈を祭る/齋藤正次郎の祭文/神部梅五郎の發句

附録 天野八郎君建碑除幕式に參列の記 (山崎有信)/幕末悲史 彰義隊の侠傑天野八郎の最期 (平井晩村)/天野八郎(新詩) (兒玉花外)/彰義隊の墓(新詩) (兒玉花外)/※幕臣大塚賀久治の事歴 (山崎有信) /大塚賀久治の事 (望月紫峰)
 ※は本編『幕末血涙史』に重複



   『幕末血涙史+天野八郎伝』の妙味
        作家  中村 彰彦
 日本で速記術が確立されたのは、明治十五年(1882)のことである。初めてその講習会がひらかれた十月二十八日は、今日も速記記念日とされている。
 では初期の速記が主に何に利用されたかというと、文化的方面では三遊亭圓朝の落語「怪談牡丹灯籠」の口演を口調を生かしたまま草紙とする際などに、未発明のテープ・レコーダー代わりに調法されたのだ。
 しかし、やや時が流れて明治二十五年(1892)が近づくに従い、時代の求めるものが変わってきた。明治維新からもう四半世紀も経つのだから、きちんとした正史として『維新史』を編纂すべきだ、という声が澎湃として起こってきたのである。これを受けて宮内省は、諸雄藩と三条・岩倉両家ほかに維新史関係事績の編纂を命令。幸いというべきか、幕末・維新の激流を乗り切った生存者もまだ少なくない時代だったため、その生存者を史談会と名付けた会合に招いて体験談を聞くことにした。
 ここにおいて速記は歴史の流れに棹さした人々の回想を記録するのに使用されるに至り、その速記録はのちに『史談会速記録』全四百十一輯にまとめられた(昭和十三年〈1938〉完結)。
 『幕末血涙史』及び『幕末史譚天野八郎伝』の著者山崎有信は、明治三年(1870)福岡県生まれ。幕末維新を実体験した世代ではないが、旧幕臣たちと交流があり、資料蒐集と読解能力に勝れていたため史談会に何度か呼ばれて講演した弁護士である。

 『幕末血涙史』はその史談会で語られた講演集であり、旭川史談会で語られた内容を併録している。目次は「大鳥圭介男の事歴に就いて」「南部領宮古湾の海戦始末」「旧長岡藩士小林虎三郎事歴 上下」、「幕臣大塚賀久治の事歴」「彰義隊顛末」「天野八郎小伝 上下」、「最上徳内の事歴に就いて」「間宮林蔵の経歴」「高田屋嘉兵衛の事歴」「下曽根信敦伝」「友成安良の事歴」の十一編。
 旧幕府軍あるいは榎本武揚を総裁とした蝦夷地政府軍として明治新政府に対抗した人々のプロフィールが多く語られるのは、山崎有信の生地が公武合体派だった旧小倉藩の領土であるため、山崎自身も佐幕の感覚をもってよしとしているからであろう。
 いうまでもなく天野八郎を副頭取とする彰義隊、あるいは榎本武揚・大鳥圭介ら旧幕臣たちの樹立した蝦夷地政府などは、旧幕臣の意地を見せて明治新政府軍に一矢報いようとした集団であった。本書はその志を果たし得ぬまま散っていった者、屈折した思いを抱いて明治時代へ歩み入らねばならなかった者などの後姿に献花する思いで書かれた史書であるからこそ『幕末血涙史』なのだ。
 十一編それぞれがすべて定説を語って良しとするのではなく、著者ならではのものの見方に裏打ちされた史談になっているのは何よりの美点である。

      ※       ※

 同書は昭和三年(1928)の刊行だが、この年の干支は戊辰戦争から六十年後の戊辰であったからこそ、幕末秘話を語る書物が多く出版されたのだ。
 対して『幕末史譚天野八郎伝』は、より早い大正十五年(1926)の出版である。大正五年、北海道旭川市に弁護士事務所を開設した著者は、この前後に旧幕臣たちの北海道移住組と交際するうちに天野八郎という一種の奇傑に興味を持ったのであろう。
 ところで幕末の江戸には、「四八郎」という表現があった。八郎という名の有名人が四人いるという意味で、その四人とは攘夷論者の清河八郎、北辰一刀流の達人井上八郎、心形刀流の名剣士で隻腕となってからも新政府軍と戦いつづけた伊庭八郎、そして天野八郎のことを指していた。
 この四人の八郎のうち天野八郎の際立った特徴といえば、天保二年(1831)、士分ではなく上州甘楽郡岩戸村の農民の次男として生まれたことだ。筆者は幕末とは天保年間(1830〜44)に始まったという考えの持ち主だが、この時代に生まれて名を残した農民階級出の者といえば、天野八郎のほかに新選組の局長近藤勇、おなじく副長土方歳三らを挙げることができる。
 幕末とは、幕権が衰微した時代であった。その分だけ身分制度の枠にとらわれることなく自身の主義主張に基いて生きる者たちが多くあらわれたのであり、天野八郎はその一典型だったといってよい。
 著者は八郎がムジナを退治した話、水雷術を発明した話、直情径行な性向ゆえか将棋の駒では香車を好み、武装したときに掲げる旗印にも香車を描かせていたことなど、多くのエピソードを紹介しながら八郎が「四八郎」のひとりへと育ってゆく過程を描き出している。

 中でも筆者が感服したのは、著者にも八郎にも詩文の才があり、本書にもそれらの詩文が巧みに用いられていることであった。慶応四年(1867)五月十五日、ついに始まった上野戦争の戦火を逃れようとした「上野の宮さま」輪王寺宮(のちの北白川宮能久親王)を助けに駆けつけた八郎が、宮さまに供を断られるくだりに置かれた連歌は次の通り。
  わらんじは斯うめすものと涙ぐみ
       遠くきこゆる鉄砲の音
彰義隊二千余の兵力で上野の山三十万坪は守ることができず、一日にして敗れ去ったのは周知の通り。八郎は七月十三日まで本所の知人宅に身を潜めたものの、ついに捕らわれて獄舎に投じられた。その獄中で書かれた八郎の回想録「斃休録」も本書に収録されているが、その末尾には八郎なりの感慨のこもる一句が記されている。
  北にのみ稲妻ありて月暗し
 時に三十八歳だった八郎は、これを事実上の辞世の句として獄死する道をたどった。

 本書は日本歴史学会編『明治維新人名辞典』(吉川弘文館)の「天野八郎」の項にも参考文献として記載されている一級の伝記だが、著者山崎有信は『彰義隊戦史』も書いている。これらとすでにマツノ書店から覆刻されている大村益次郎関係史料を併読すれば戊辰上野戦争を立体的に理解することができよう。 
 『幕末血涙史』と『幕末史譚天野八郎伝』 の合本として覆刻された本書を、江湖にひろくお薦めするゆえんである。
(本書パンフレットより)