高杉晋作・吉田年麻呂と並び松陰門下の三秀と称された俊傑の
   短い生涯を残された往復文書で再現する
久坂玄瑞史料
   一坂太郎・道迫真吾 編
   2018年刊行 A5判 上製函入 850頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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■松陰門下の逸材で、幕未の政局に多大な影響を与えた久坂玄瑞に関する往復文書500点以上を、一冊にまとめました。松門三秀史料集として、既刊の『高杉晋作史料』『吉田年麻呂史料』に続く完結篇となります。
■久坂の文書集は『久坂玄瑞文書 上巻』(昭和19年刊)が知られていますが、これは文久元年で終わっており、続篇は未完のまま原稿も失われてしまいました。
■本書は久坂が京都を中心に尊王撰夷運動に遭進する文久二年から元治元年までの文書をあらためて発掘し、さらに文久元年以前の文書も出来るだけ原翰に当たり、新史料も多数加えて「決定版」としました。
■日詔や詩歌については小杜刊の『久振至瑞全集』以降、新しい史料は殆ど発見されていないので割愛しました。既に「全集」をお持ちの方は本書と併せて頂くことで、なお一層久坂の全貌に迫る事が出来ます。(マツノ書店)

久坂玄瑞史料 略目次
往復文書
・安政二年(一八五五年)
中村道太郎より

・安政三年(一八五六年)
山県半蔵あて、吉田松陰評文、吉田松陰あて、吉田松陰評文、吉田松陰あて、吉田松陰より(草稿)、吉田松陰より、吉田松陰あて、吉田松陰より、月性あて、月性あて

・安政四年(一八五七年)
吉田松陰より、口羽徳祐より、口羽徳祐あて、南亀五郎あて、(参考)吉田松陰より江幡五郎あて、(参考)吉田松陰より玄瑞に嫁ぐ妹文あて、口羽徳祐あて、口羽徳祐あて、(参考)月性より吉田松陰あて、南亀五郎あて

・安政五年(一八五八年)
松浦松洞を送るの序、益田弾正あて建白書、月性あて、(参考)月性より藤森弘庵あて、好生館退館願書、久坂文中あて、(参考)口羽徳祐より立見直八あて、(参考)吉田松陰より桂小五郎あて、吉田松陰より送序、(参考)吉田松陰より森田節斎あて、佐世八十郎より送序、吉田松陰あて、吉田松陰より、坂章蔵あて、久保清太郎より、(参考)高杉晋作より吉田松陰あて、土屋矢之助あて、福原与三兵衛あて、吉田松陰より(桂小五郎・赤川淡水と連名あて)、吉田松陰あて、吉田松陰より、藩政府あて、吉田松陰より、生田良佐の西帰を送るの序、福原与三兵衛あて、大原重徳あて、梅田雲浜より送序、石津百助あて(稽古料下附申請)、(参考)元小浜藩士梅田源次郎〈定明〉吟味申口写、、吉田松陰あて二通、吉村祐庵あて、土屋矢之助あて、吉田松陰あて(高杉晋作・飯田正伯・尾寺新之允・中谷正亮と連名)、吉村祐庵より、桂小五郎あて、妻文あて、清狂遺稿の跋、中村九郎兵衛あて

・安政六年(一八五九年)
益田弾正あて建白書、岡部富太郎あて、吉田松陰と往復、吉田松陰あて、岡部富太郎あて、中谷正亮あて、高杉晋作より(中谷正亮・半井春軒と連名あて)、吉田松陰より(小田村伊之助・久保清太郎と連名あて)、吉田松陰より(小田村伊之助と連名あて) 、岡耕次郎あて、高杉晋作より、吉田松陰より、高杉晋作より、飯田正伯より、杉梅太郎あて、吉田松陰あて、福川犀之助あて、高杉晋作あて、入江杉蔵より、野村和作より、入江杉蔵より、吉田松陰より(久保清太郎と連名あて)、高杉晋作より、入江杉蔵より、前田孫右衛門あて、入江杉蔵あて、入江杉蔵より、広井少吉より、入江杉蔵あて、野村和作より、入江杉蔵より、桂小五郎より(久坂玄瑞あてか)、入江杉蔵あて、飯田正伯・尾寺新之丞より(高杉晋作・久保清太郎と連名あて)、入江杉蔵あて、入江杉蔵より、有吉熊次郎あて、入江杉蔵より

・万延元年(一八六〇年)
藩政府への建言書(草稿)、岡部富太郎あて、内田五郎より、入江杉蔵より、入江杉蔵より、久保清太郎あて、(参考)桂右衛門より桂小五郎あて、佐世八十郎・入江杉蔵あて、杉百合之助あて、白井小輔あて、杉梅太郎あて、入江杉蔵あて、杉梅太郎あて、寺島忠三郎・入江杉蔵・野村和作・吉田栄太郎あて、妻文あて、入江杉蔵あて、藩主あて建白書(草稿)、入江杉蔵あて、妻文あて、高杉晋作より、杉梅太郎あて

・文久元年(一八六一年)
乙葉大輔、中谷彪二郎あて、杉梅太郎あて、世子毛利定広あて建白書(草稿)、某あて(草稿)、楢崎弥八郎より、藩政府あて建白書、杉梅太郎あて、杉梅太郎あてか、妻文あて、入江杉蔵あて、岩間金平より、杉梅太郎あて、入江杉蔵あて、中村九郎兵衛あて、河本杜太郎より、妻文あて、益田弾正あて建白書、入江杉蔵あて、堀達之助より、宮崎元立より、乙葉大輔あて、桂小五郎あて、杉梅太郎あて、入江杉蔵あて、山田方谷あて、山県半蔵あて、菅鉞太郎あて、益田弾正あて建白書、町田直五郎より、菅鉞太郎より、桂小五郎あて、樺山三円より、樺山三円あて、入江杉蔵あて、西村某(清之允か)より、桂小五郎あて、入江杉蔵あて、桂小五郎あて、某あて、杉梅太郎あて、入江杉蔵あて、品川弥二郎あて、桂小五郎あて、樺山三円より、樺山三円より、桂小五郎あて、樺山三円あて、入江杉蔵あて、佐世八十郎より、藩主あて建白書、樺山三円あて、岡本三右衛門あて、土屋矢之助あて、樺山三円あて、佐世八十郎より、佐世八十郎より、久保清太郎より、松浦亀太郎より、杉梅太郎あて、入江杉蔵あて、(参考)周布政之助より藩政府あて、桂小五郎・高杉晋作あて、小田村伊之助あて、時山直八より、桂小五郎・高杉晋作あて、本間精一郎より、楢崎弥八郎より、吉田栄太郎より、大石新蔵あて、野村和作より、樺山三円より、河本杜太郎より、武市半平太あて(草稿)、武市半平太あて、土屋矢之助より

・文久二年(一八六二年)
乙葉大輔より、武市半平太より、武市半平太あて、来島又兵衛あて、樺山三円あて、来島又兵衛あて、中谷正亮より、町田千成より、岡本三右衛門より、土屋矢之助より、岡本三右衛門あて、岡本三右衛門あて、白石正一郎あて、前田孫右衛門あて、久保清太郎あて、入江杉蔵より、久保清太郎あて、血盟書(草稿)、牟田大介聞書き、松島剛蔵より、佐世八十郎より(久坂玄瑞あてか)、入江杉蔵あて、前田孫右衛門あて、前田孫右衛門より、前田孫右衛門より、佐世八十郎あて、長井雅楽罪案、松島剛蔵より、佐世八十郎より、佐世八十郎より、土屋矢之助より 、中谷正亮あて、借金覚え書、前田孫右衛門あて(楢崎弥八郎・佐世八十郎と連名)、前田孫右衛門あて(久保・中谷・楢崎・佐世と連名)、宿々目代所衆中あて、土屋矢之助より、藩主あて建白書、長井雅楽弾劾に関する建白書(佐世八十郎・楢崎仲介・中谷正亮・楢崎弥八郎と連署)、海江田武次より、中村九郎兵衛より、本田弥右衛門より、小河弥右衛門より(堀真五郎と連名あて)、長井雅楽の書き取り弁駁書(久保清太郎・楢崎弥八郎・佐世八十郎・中谷正亮・楢崎仲輔・福原乙之進・寺島忠三郎と連名)、妻文あて、堀次郎より、世子毛利定広あて(久保清太郎・中谷正亮・佐世八十郎・楢崎弥八郎と連名)、桂小五郎より、桂小五郎あて(中谷正亮・佐世八十郎・楢崎仲輔と連名)、山田市之允・馬島甫仙あて、妻文あて、真木和泉より、桂小五郎あて、斬奸(長井雅楽を斥す)状(草稿)、浦靭負あて建白書(福原乙之進・寺島忠三郎と連名)、長井雅楽弾劾建白(草稿)、武市半平太あて、真木和泉より、桂小五郎あて、桂小五郎より、藩主父子あて、杉百合之助あて、杉梅太郎あて、佐々木男也あて、中村九郎あて、武市半平太あて、中谷正亮・佐世八十郎・有吉熊次郎あて、佐世八十郎あて、佐々木男也あて、堤松左衛門より、中村九郎より、中村九郎あて、佐々木男也・楢崎八十郎より、品川弥二郎あて、武市半平太あて、勅使関東下向に関する上書、薩長土三藩攘夷請願書、上田楠次あて、前田孫右衛門より、南豊より(宍戸九郎兵衛・前田孫右衛門・中村九郎兵衛・佐々木男也と連名あて)、妻文あて、佐々木男也あて、藩政府あて、薩邸三人より、小田村文助より、前田孫右衛門より、前田孫右衛門・宍戸九郎兵衛・山田宇右衛門あて、佐々木男也あて、小田村文助あて、小田村文助あて、桂小五郎あて、桂小五郎より、禁賊の檄文、小田村文助あて、藩政府あて、攘夷督促布告等(写し)、土屋矢之助より(佐々木男也と連名あて)、三条実美・姉小路公知より、攘夷血盟書、梅田とみより、中村九郎より、桂小五郎より、桂小五郎・高杉晋作あて、桂小五郎あて、桜井純蔵より、佐久間格二郎(実は象山)より(山県半蔵と連名あて)、麻田公輔・来島又兵衛あて(山県半蔵と連名)、佐久間象山より(山県半蔵と連名あて)

・文久三年(一八六三年)
入江杉蔵より、桂小五郎・高杉晋作あて、武市半平太より、作間忠兵衛より、鷹司輔熈あて建白書(轟武兵衛・寺島忠三郎と連名)、中岡慎太郎より、志道聞多より、楢崎弥八郎より、平井収二郎より、楢崎弥八郎より、妻文あて、大和国之助あて、梅田とみより、桂小五郎より(佐々木男也と連名あて)、真木和泉より、摂海戦守御備意見書、平井収次郎より(寺島忠三郎・吉田栄太郎と連名あて)、高杉晋作あて、加藤有隣あて、吉田栄太郎より(寺島忠三郎と連名あて)、松田重助より、木原貞亮・早川与一郎より(吉田玄蕃と連名あて)、淵上郁太郎より、妻文あて、杉梅太郎あて、高杉晋作より(寺島忠三郎と連名あて)、国司信濃より、土屋矢之助より、藩政府あてか、広瀬友之允より(武市半平太と連名あて)、寺島忠三郎あて、淵上郁太郎より、松本奎堂より、真木和泉より、杉徳輔より、真木和泉あて、唐・蘭船拒絶に関する伺書、幕府あて進言、寺島忠三郎あて、妻文あて、石原甚太郎より、清水清太郎あて、桂小五郎あて、寺島忠三郎あて、淵上郁太郎より、桂小五郎あて、桂小五郎より、桂小五郎より、中山忠光より、高杉晋作より(桂小五郎と連名あて)、桂小五郎より、北垣晋太郎より(寺島忠三郎と連名あて)、小田村文助あて、杉梅太郎あて、中山忠光より、中山忠光より(寺島忠三郎と連名あて)桂小五郎あて、妻文あて、大谷樸助あて、桂小五郎あて、北垣晋太郎より(寺島忠三郎・佐々木男也・高杉晋作・赤根武人・河上弥市・林半助・小田村文助・入江九一と連名あて)、野村和作あて、桂小五郎より、桂小五郎より、寺島忠三郎より(来島又兵衛・中村九郎・佐々木男也と連名あて)、小田村文助あて、藩政府あて、寺島忠三郎より(来島又兵衛・桂小五郎・中村九郎・佐々木男也と連名あて)、杉徳輔あて、来島又兵衛あて、北条瀬兵衛・斎藤一郎兵衛・河上忠右衛門あて(渡辺伊兵衛・天野謙吉・楢崎弥八郎・長嶺内蔵太・高杉晋作・中村誠一・前田孫右衛門と連名)、福原与三兵衛・奥平数馬・神田源八あて(渡辺伊兵衛・天野謙吉・楢崎弥八郎・長嶺内蔵太・高杉晋作・中村誠一・前田孫右衛門と連名)、佐世八十郎・佐々木男也より(中村九郎・長嶺内蔵太と連名あて)、佐世八十郎・佐々木男也より(中村九郎・長嶺内蔵太と連名あて)、堀真五郎より、岡元太郎より(時山直八と連名あて)、野村和作より(桂小五郎・高杉晋作・佐々木男也と連名あて)、寺島忠三郎より(長藩同志あて)、赤祢武人より、桂小五郎より、桂小五郎より、桂小五郎あて、来島又兵衛あて、杉梅太郎あてか、●中熊次郎より、松島剛蔵より(前田孫右衛門・中村九郎・長嶺内蔵太と連名あて)、波多野金吾あて、来島又兵衛あて、中村九郎あて、滝弥太郎より、大谷久七あて、中村九郎あて、高杉晋作あて、来島又兵衛あて、井原主計あて(乃美織江と連署)、八幡隊あて親書(久坂筆)、寺島忠三郎あて、某あて、鷹司輔熙あて(草稿)、乃美織江あて

・元治元年(一八六四年)
土屋矢之助あて、井上丹下あて、杉梅太郎あて、妻文あて、宍戸九郎兵衛あて、児玉若狭より、品川弥二郎あて、前田孫右衛門あて、政事堂あて(乃美織江と連名)、桂小五郎あて、桂小五郎あて、古高俊太郎あて、乃美織江より、寺島忠三郎より、妻文あて、桂小五郎あて、議事録(来島又兵衛・桂小五郎・寺島忠三郎・入江九一と連名)、霊牌護遷に関する添書(乃美織江と連名)、世子進発論に関する意見の要領、藩政府あて、勝部静男より、古高俊太郎あて、渡辺内蔵太あて、土肥七助あて、杉梅太郎より、福羽美静あて、乃美織江あて、妻文あて、中村円太・中岡慎太郎あて(寺島忠三郎と連名)、佐久間佐兵衛より(中村九郎と連名あて)、桂小五郎より、宍戸左馬介・北条瀬兵衛あて、郡山藩主松平保徳あて(真木和泉・中村円太・寺島忠三郎・入江九一と連名)、朝廷あて(真木和泉・中村円太・寺島忠三郎・入江九一と連名)、米沢藩主上杉斉憲あて(入江九一と連名)、一橋殿御用人中あて(入江九一と連名)、藩政府あて、淀藩主稲葉正邦あて(真木和泉・中村円太・寺島忠三郎・入江九一と連名)、淀藩主稲葉正邦あて(真木和泉・中村円太と連名)、長防両国民之士民歎願書

・年月日等未詳
村田次郎三郎あて、中村九郎・桂小五郎あて、中村九郎あて、楢崎某あて、世古格太郎あて、清太郎あて、有賀某あて、佐々木男也あて(桂小五郎と連名)、佐々木男也あて七通、吉松淳蔵あてか、中谷正亮より、佐久間佐兵衛より、坂谷朗盧より、青木某より

履歴史料
『高杉晋作史料』補遺
往復文書、沙汰書(嘉永六年十二月)、桂小五郎あて(文久三年十一月)高杉百合三郎あて(元治元年十一月)、杉孫七郎より(井上聞多と連名あて 慶応元年一月)、前原一誠あて(慶応元年十月)父小忠太あて(断簡 慶応二年十二月)、八木隼雄あて(慶応三年二月)、坂本恕八郎あて、前原彦太郎あて、山県狂介あて、揮毫および印譜、詩歌草稿、『甲子残稿』の一部

『吉田年麻呂史料』補遺
往復文書、吉田松陰・富永有隣あて、杉孫七郎あて、杉孫七郎あて、杉孫七郎あて、杉孫七郎あて



史料を集め編む意味
萩博物館特別学芸員 一坂 太郎
 出版を予告してからずいぶん経ってしまったが、ようやく『久坂玄瑞史料』が完成しようとしている。八百数十頁の大冊になりそうだ。辛抱強く、温かく見守って下さった皆様に、まずは感謝の気持ちを伝えたい。
 さて、かねてからパンフレットの推薦文は、井上勲・井上勝生両先生にお願いしたいと思っていた。ところが勲先生は先年他界され、勝生先生は一旦快諾下さったものの、諸事情から執筆が困難になってしまった。なんとも残念なのだが、こうなった以上推薦文は無しにして、編者みずから本書出版に至る思いの一端を、書かせてもらおうと思う。
 高杉晋作と並び松陰門下の「竜虎」とか「双璧」と呼ばれる久坂玄瑞(義助(よしすけ))は元治元年(1864)7月19日の「禁門の変」で敗れ、二十五歳の若さで自決する。明治と改元される、四年前のことだ。桜花に例えられる鮮烈な生きざまは、多くの人々の記憶に残ったようで、明治に入ると『江月斎稿』や『江月斎遺集』といった詩歌や文章を集めた和本が出版された。

 さらに松陰研究で知られた実業家の福本義亮が、久坂の遺児から譲り受けた史料をもとに昭和九年(一九三四)、『松下村塾の偉人 久坂玄瑞』(のち『久坂玄瑞全集』と改題してマツノ書店が復刻)を発表する。つづいて歴史家の妻木忠太が、長年かけて集めた史料をまとめて『久坂玄瑞遺文集』全三冊として出版すれば、これが決定版になるはずだった。
 ところが妻木編の遺文集は、昭和19年に上巻が出ただけで終わる。残りの原稿は、戦後のどさくさの中で失われたという。上巻は文久元年(1861)末までの往復文書が収められているのだが、その続きこそが、久坂が京都を舞台に大活躍する最も重要な部分なのだ。これではあまりにも、中途半端である。
 妻木がどのような史料を収集していたかは、上巻に収められた年譜を見れば大体分かる。三十年ほど前、失われた部分を再現してみようと思い立った私は、ぼちぼちではあるが史料収集を続けた。その結果、往復文書五百余点が集まり、かなりの部分を再現することが出来た。どうしても探し出せなかった史料があるものの、妻木が目にすることが無かったであろう史料にも、ずいぶんとお目にかかることが出来た。

 このたびの『久坂玄瑞史料』に収められた文久二年以降の往復文書により、激しい尊王攘夷論を唱えた久坂が、朝廷の力を背景に長州藩を国政のど真ん中に引きずり出してゆく過程が、いままで以上に鮮明になるはずだ。もちろん史料集だから、さまざまな読み方が可能だろう。すでにマツノ書店から出した『高杉晋作史料』『吉田年麻呂史料』に続くもので、「松門三秀史料集」の完結である。松陰はこの三人は自分にとり「良薬」だと述べているが、その「史料集」もまた、歴史研究の「良薬」であって欲しいものである。

 私が単純に面白いと思った「初公開」となる史料を、二点紹介しておこう。
 ひとつは文久二年六月上旬に書かれた、某あて書簡の草稿。同年四月、土佐高知で吉田東洋を暗殺した三人の刺客が、久坂の配慮により京都の長州藩邸に潜伏したことがある。その経緯は瑞山会編『維新土佐勤王史』にも詳しいが、さすがに久坂もお尋ね者を長くは匿えなかったらしい。三人の行方を上役から尋ねられて、「一同町風呂え参り候由にて外出つかまり、それきり罷り帰らず候事」と、人を食ったような返答をしている。
 あるいは同じころと見られる書簡(これも某あて)には、「天下一乱候得ば、品川より船にて御引き取りか、又は根岸又七郎殿え御引き取り候て」云々の一節がある。江戸で藩主が危機に陥ったさいの脱出路につき述べているのだが、根岸とは武州大里郡冑山村の大地主で、江戸の長州藩邸婦女子の極秘逃走中継点だった。江戸や京都で派手に暴れまわった久坂だが、万一の時のことも考えていたようだ。
 ただ、久坂史料の編纂に対し、歴史はロマンであり、史料でロマンを壊すのはいかがなものか、県民の誇りを傷つける行為だといった非難があり、言われ無き妨害も受けた。これまで何度も書いたが、私を突き動かし続けて来たのは、松陰の自著に対する真摯な思いだ。自分の遺骸は捨てられても構わないが、著作は保存して欲しいとか、坊さんに一万回供養をやってもらうよりも、著作を保存・出版してくれと望んでいる。

 松陰にせよ、久坂にせよ、かれらは時代と格闘し、志の上に死んだのだ。だからこそ、その思いを託した遺文(史料)を保存伝承し、研究の基礎とすることが、どのような崇敬、顕彰活動よりも大切であると、私は信じて疑わない。福本義亮や妻木忠太といった先人の志を継ぎ、史料という「ピース」をひとつでも沢山集め、歴史という「パズル」を完成に近づけてゆくのだ。誰かの意図や政治的圧力でピースを隠したり、変形させたりする気は毛頭無い。


明治150年に久坂の往復書簡を集大成
萩博物館 道迫真吾
 平成24年(2012)刊行の『吉田年麻呂史料』に続き、今回は『久坂玄瑞史料』である。
 実は、共編者の一坂太郎氏とは、『年麻呂』が刊行されてからすぐに、『玄瑞』についての話をし始めていた。できることなら、元治元年(1864)に久坂玄瑞が没してからちょうど150年にあたる、平成26年(2014)に出版したいとの希望を抱いていた。現にマツノ書店の松村久社長からは、その方向で仕事を進めてよいとのご内諾を得ていた。ところが、当初の見込みを三年ほどもオーバーすることとなり、実に不甲斐なく、誠に申し訳ない気持ちでいっぱいである。本書の完成を温かく待ち続けてくださった松村社長をはじめ、関係者の皆様に、心より御礼申し上げたい。

 しかし、なぜこれほどまでに梃子摺ったかというと、言い訳がましいが、二点ほど理由がある。一点目は、『玄瑞』は『年麻呂』に比べて、書簡の残存数が圧倒的に多いということが挙げられる。『年麻呂』の時もそうだったが、史料集編纂にあたっては、往信と来信の両方を収録するという方針をとったため、『玄瑞』は相当ボリュームが増えることになった。二点目は、『年麻呂』の場合は書簡の原本がある程度まとまった場所に保存されているのに対し、『玄瑞』の場合は各所に分散して保存されていることが挙げられる。このため、原本の出所確認と整理に思いのほか難渋した。以上のことはおそらく、幕末政治史における久坂玄瑞と吉田稔麿の影響力の差にもよるのであろうが、要は、『玄瑞』は『年麻呂』に比べて相当難しく、手間もかかる仕事であったということをお伝えしたいのだ。
 さらに、稀代の史料ハンターである一坂氏が、編纂過程で次から次へと新しい書簡を掘り起こしてきたため、かなりの追加が発生し、翻刻に時間がかかったということもある。

 そして気がつけば、もう、明治維新150年の節目にあたる平成30年(2018)を迎えることになった。その関係で山口はもとより、鹿児島・高知・佐賀というかつての「薩長土肥」では、官民を挙げて観光・経済活性化の拍車をかけている。このことを全否定するつもりは毛頭ないが、各種イベントの予定が盛り沢山に組まれているのに対し、地味な史料の収集や調査・研究、教育には、あまりお金が割かれないようだ。しかし、以下はあくまでも個人的な考えだが、本来なら、歴史を消費財にしたような単なるお祭り騒ぎばかりではなく、しっかり歴史と向き合った重厚な内容をもつことに対して、もう少し理解があってもよいのではなかろうか。明治維新150年という節目においては、過去を振り返り、現在地を確かめ、未来を展望することこそが、もっとも大切なのではないだろうか。
 こうしたタイミングにおいて『久坂玄瑞史料』を世に出すことで、ささやかではあるが、内容のある仕事を残すことができたのではないかと考えている。