日本主義を首唱し、硬骨ぶりを鳴らした谷干城の反骨の生涯を詳述。この国の近代を浮彫りした名著。
子爵谷干城伝
  平尾道雄・著  マツノ書店 復刻版(原本 昭和10年冨山房)
   2018年刊行 A5判 上製函入 804頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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刊行にあたって
 本書『子爵谷干城傳』は、歴史家故平尾道雄氏の大著で、昭和十年冨山房より発行されたものであるが、干城伝記の決定版として、今日なお、その資料的価値を高く評価されている名著である。
 その内容はまことに精緻をきわめ、干城の人間像を余すところなく浮き彫りにするとともに、土佐を中心とした幕末維新から明治全期に及ぶ、いわゆる明治時代史としての趣きすら備えている。
 ことに本書に引用の彪大な史料は、ひとり干城研究のみにとどまらず、近現代史研究には欠かすことのできない貴重な資料とされている。
 だが、この名著も、今日ではほとんど入手が不可能となり、ために研究者各位から久しく復刊を望まれていた。このたびの復刊は、こうした御要望にお応えすべく、著者の御遺族井上矩雄氏、並びに冨山房の御好意を得、同書を復刻して再び世に送る次第である。
 なお、復刻にあたっては、新たに、高知大学名誉教授山本大先生に『解題』を付していただいて、読者各位の利用の使を図った。
 昭和五十六年八月(象山社復刻版 より引用)

子爵谷干城伝 略目次
谷干城子と其家門
 @谷干城子の印象 A谷家系譜 B南学と谷家 C干城子の生家

修業時代
 @文武修行 A江戸遊学 B三計塾々生 C藩の奨学を受く D結婚と任官 

勤王時代 上
 @桜田門事変に感奮す A武市瑞山と吉田東洋 B上京と国事上書 C九州探索行 D勅旨を奉じて東下す E彦根藩情の探索 F攘夷先鋒隊建言と御親兵 G長藩救解論

勤主時代 下
 @藩の富国策と子の強兵論 A藩札発行反対意見書 B長崎及び上海視察 C土佐に於ける討幕派の台頭 D薩土討幕密約 E討幕準備 其一〜其四

東征藩兵大軍監 上
 @土佐藩兵の出動 A東山道先鋒軍編成 B甲府占拠と勝沼の戦 C江戸駐陣と関東の情勢 D安塚の役と壬生占拠 E日光進撃と霊廟保存 F今市駅の防禦戦

東征藩兵大軍監 下
 @土佐藩兵の第二次出動 A奥羽地方の戦況 B米沢藩勧降書 C会津若松城攻囲 D子の米沢庄内訪問 E凱旋と行賞 F断金隊始末

藩政維新時代
 @版籍奉還と子 A徴士弾正少忠を辞す B軍備の整頓と拡張 C琴陵会議所 D高知藩の三策樹立 E財政改革案を提唱す F十八箇条問題と子の失脚 G献兵 H子初めて朝官を拝す

熊本鎮台司令長官 上
 @子熊本鎮台司令長官となる A征韓論と其影響 B協和護国論と佐賀の乱 C台湾蛮地事務参軍 D子の辞職E高知県の政社 F山内家と子

熊本鎮台司令長官 下
 @子の再起と時勢 A鹿児島の挙兵 B熊本守城の策 C籠城戦五十日 D突囲隊の成功 E熊本城連絡成る F豊後方面に出動す G鹿児島平定 H立志社の挙兵計画 I子と中立杜

陸軍中将現職時代
 @東部監軍部長 A士官学校長兼戸山学校長 B長崎墓地移転問題と子の辞職 

中正主義に立つ
 @四将軍の上表 A中正党と子 B山内公子の伝育 C海南学校事務総管 D学習院々長 E斯文学会と斯文黌 F子爵を授けらる

農商務大臣
 @官制改革と子の農商務大臣 A欧洲視察 B時弊匡救策 C条約改正反対意見書 D谷君名誉表彰運動会

日本主義提唱
 @新聞『日本』と新保守党 A枢密顧問官辞退 B後藤伯と子 C日本倶楽部 D条約改正中止 E子と高陽会

貴族院時代 上
 @帝国議会と子の貴族院議員 選任 A湖南事件 B勤倹尚武の建議案 C選挙干渉問題 D鉄道会議々員と貨幣制度 調査委員長 E官紀振粛問題 F対外硬派と条約励行論 G日清戦役と三国干渉問題 H対韓政策と閔妃事件 I伊藤内閣の瓦解

貴族院時代 下
 @松方内閣と子 A地租増徴に反対す B伊藤内閣と子 C桂内閣の出現 D親露排英主義 E日露戦役と子の平和論 F新韓国統監伊藤博文と子 G薨去

 余 録

  『子爵谷干城伝』解題
           山本 大
 高知市街地の北に秦泉寺・久万の丘陵が東西に走っているが、その丘陵西部の西久万の一角に谷干城の旧邸がある。干城は明治2年(1869)十月、この地に新宅を造営し、年末完成ののち小高坂桜馬場より移り住んだが、現在土蔵と庭園は昔のままで残っている。邸宅の北は小山に連なり、東南には久万川をへだてて高知城が望まれる。環境のよいところで、旧邸の後方には干城と玖満夫人、並びに一族の墓がある。干城の師安井息軒は、干城の求めに応じてこの居を「有待楼」と名付けた。国家のために粉骨砕身し、「富爵ますます進み、功名世を蓋った」のちの帰山を待つの心を込めたもので、『有待楼記』を書いて干城に送ったのである。
 干城は南学の泰斗谷秦山の後裔で、万七景芥の子として天保八年(1837)2月11日、土佐国高岡郡窪川に生まれた。父は多芸多才の人で、医術を業とし武術を教えて生計をたてていたが、弘化三年(1846)藩校の句読役となって高知に移り、城西の桜馬場にあった谷氏本家の家に住んだ。
 少年時代の干城は学問を好まなかったが、剣術・弓術・砲術など武道には熱心であった。安政元年(1854)の大地震で友達と腕白遊びができなくなり、孤独の日々を送る中で友人たちが軍書を読むのをみて発憤し、以後学問に専念するようになったという。それにしても秦山・垣守・真潮と碩学のつづいた家系に生まれ、のちに南学中興の祖秦山を誇りとして生きた干城であってみれば、一度火のついた学問への熱情はすさまじいものであった。
 安政三年藩より遊学を命ぜられて江戸に赴き、若山勿堂・安積艮斎・塩谷宕陰について学び、同六年には自費留学して安井息軒の三計塾に学んだ。三計塾での足かけ三年の研讃により干城の学問は大いにすすみ、文筆の能と漢詩の才はこの間に養われ、後年の著作の基礎が培われたのであった。万延元年(1860)の桜田門外の変では現場にかけつけ、時局の容易ならざることを悟ったが、文久元年(1861)帰国の途中、大坂で池内蔵太・河野敏鎌・武市半平太に会って時局を談じ、尊王攘夷の思想を切実に感得したのであった。さらにこの思想は父の志であるが故に、この頃から実践行動を志向するようになる。
 ところで、幕末の土佐藩では、上士の門閥層を中心とする佐幕派と、藩政権を握っている山内容堂・吉田東洋らの公武合体派と、郷士・庄屋を中核とした勤王派に分かれており、それに勤王派に同情する上士の一部が加って複雑な政治情勢を呈していた。佐幕派と勤王党とは反吉田という点で一致していたが、文久二年勤王党は説得に応じない吉田東洋を暗殺し、いわゆる土佐勤王の年を実現させたのであった。こうした情勢の変化のなかにあって干城は上士としての身分や藩の立場を考えると、意見は具申しても直接勤王運動に身を投ずるわけにはいかなかった、藩命のままに諸役を歴任したが、慶応元年(1865)十二月、西国筋視察、長崎表探索を命ぜられた。長崎に赴き、後藤象二郎と坂本龍馬に会って時勢を談じ、上海に航して海外の事情を視察したが、見聞を新たにするに従い、攘夷の実行不可能をさとり、尊王討幕の実現に向かって適進するようになった。
 慶応三年長崎より帰国後小目付となり、再度の上京の際に板垣退助・中岡慎太郎。毛利恭助と会合し、薩摩の小松帯刀・西郷隆盛・吉井幸輔と会談の結果、薩土討幕の密約を結んだ。5月21日のことである。帰国後軍備御用、文武調役となったが、やがて大政奉還、坂本・中岡の横死、王政復古の号令煥発と時局はめまぐるしく転回し、鳥羽伏見の戦を発端とする戊辰戦争に突入する。干城は大監察兼仕置役に昇進し、軍監として奥羽征討軍に加わって日光東照宮を救い、米沢藩に使して降伏の交渉に成功したのであった。戦後の論功行賞で参政加役となり二五〇石の役禄を給せられることになった。


 明治維新後は藩政に参画して種々改革の意見を具申したが、大参事の板垣退助と意見があわず、のちの対立の因をつくることとなった。藩では志を得なかったが、明治4年(1871)兵部権大丞・陸軍大佐、翌年陸軍少将となり、軍人としての道を歩むこととなる。熊本鎮台司令長官、台湾蕃地事務参軍を経て、明治9年11月再び熊本鎮台司令長官に任じられた。時に干城は40歳であった。翌十年の西南の役で、熊本城において籠城五十余日に及んだことはあまりにも有名で、干城の名を不朽ならしめたのである。
 明治11年中将に昇進し、以後東部監軍部長をはじめ軍の要職を歴任したが、当局と見解を異にし、14年軍務を解かれた。それ以来生活は一変し、三浦梧楼・曽我祐準・鳥尾小弥太の三人と提携して中正主義を主張し、同志に中正党を出現させ、政治の浄化に向かって活動をはじめた。17年5月学習院院長となり、7月7日子爵を授けられ、ここに名実ともに子爵谷干城が誕生したのである。18年内閣制度の発足にともない、伊藤博文内閣の農商務大臣に就任し、翌年欧州に出張したが、帰国後、政府の欧化主義を糾弾して「時弊匡救策」を建議し、「条約改正反対意見書」を提出したがいれられず、大臣を辞する気骨を示した。これによって干城は真骨項を発揮し、熊本籠城以上に名声を高めたといわれる。
 明治23年貴族院議員となり、率直な意見を吐露して時弊を痛斥し、政府の失政を攻撃したが、日清戦争後の三国干渉に際し、外交上、財政上の見地から平和裡に遼東半島を返還することとの妥当性を説いた。31年には地租をめぐって田口卯吉の増徴論に論争をいどみ、星亨の汚職事件を糾弾した。日露戦争については、国際平和と日本の経済力から考えて開戦を否とし、日英同盟の無用を論じて警世の欝を放ったが、熱狂的な征露の世論を封ずることはできなかった。
 明治42年頃から脳障害をおこし、腎臓を病み健康がすぐれなかったが、44年5月13日、東京市ヶ谷の自邸で世を去った。75歳であった。


 以上は谷干城の略歴のあらましであるが、干城の活動を支えたのは妻の玖満であった。彼女は谷家とほぼ同格の国沢氏の女で、文久二年(1862)結婚したが、結婚式の日まで会ったことはなかったという。父のめがねにかなった良妻賢母型の女性で、内助の功をつんだが、とくに熊本籠城で士卒の慰問、傷病兵の看護、食料の確保と調理など、夫人の果たした献身的な行為は称賛の的となった。干城は「我れの人となりしは、実に、我が父と我が師(安井息軒)と我が妻の恩なり」といっているが、まさにそのとおりであった。夫人は干城に先立つこと一年五ヵ月、42年12月19日、心臓弁膜閉塞で死去したが、遺骨は干城とともに故郷の久万山に葬られた。
 干城の回想録に『隈山詒謀録』があるが、隈山は久万山で、干城はこれを号とした。家祖秦山が高知城北の秦泉寺に閑居して秦山と号したひそみにならったものであろうか。谷家の「墓の大なるは子孫衰滅の兆なり」との家訓に基づいてつくられた自然石の質素な墓が山の頂上近くにたっている。かつての部下の協力によってたてられたものである。
 干城75年の生涯は、一貫して日本主義に貫かれていたといえよう。幕末非常の時局に際しては尊王討幕による維新回天の業の成就をめざし、維新後の版籍奉還については、封建的主従関係をたつのは情においてしのびずという考えをもっていた。自由民権運動の高揚にあたり、土佐では立志社に反対する結社として静倹社が成立し、古勤王党グループの反対運動がおこったが、干城はともにその行きすぎを警戒して佐々木高行・土方久元らと中立社を結成したのであった。それにしても中立とはいえ、板垣退助の立志社を中心とする活動には反対し、板垣に猛烈な対立感情をあらわしている。そこにはかつての戊辰東征のときの協力的な姿はみられない。だが讒謗律・新聞紙条例・集会条例などの発布による民論の圧追は許せないとし、反政府的な立場を明らかにしている。また西南戦争や三国干渉の際における行動も、日露戦争非戦論の展開も、当時における日本の現状をふまえ、将来をおもんばかってのことで、日本主義に基づく信念の表現といえよう。
 一面、干城はすぐれた財政手腕を発揮した人であった。幼少時の家計の苦しさや、青年時代の体験から自然と養われたものだが、維新後の藩の財政難に対し、藩政大改革の綱領を提出し、のちには農商務大臣として台閣につらなっているにもかかわらず、政策改革案を提出している。閣議で一蹴されると直ちに大臣を辞しているが、今日の行政改革を連想させるものがある。


 谷干城の行動や業績、学問などについて、これを物語る史料が残されている。島内登志衛編纂の『谷干城遺稿』二巻で、明治45年靖献社から発行されている(昭和50年〜51年に日本史籍協会叢書の一として四巻本が東京大学出版会より復刻さる。これには自伝的回想の『隈山詒謀録』をはじめ、日記類、上書建白及び意見書、書簡、雑説、詩文、山内維新史、さらに附録として逸事逸話が収載されている。
 また立教大学に「谷干城家関係文書」「谷干城関係書簡」が所蔵されている。これは谷干城家旧蔵のものを書店を通じて購入したもので、『谷干城遺稿』所収のもののほか、未公開であったものが多数含まれている。なお谷家から旧主山内家に寄贈された干城所蔵の書籍、史料類が山内文庫の一部として高知県立図書館に寄託されている。
 谷干城は国権派、日本主義者といわれて幕末維新の激動期から明治末期までを生きぬいた人であるだけに、その生涯は幕末から明治時代の歴史をそのまま物語っているといえよう。それだけに伝記も書かれている。いくつかをあげてみると、『隈山谷干城之伝』(石原孫一郎著、明治20年発行〉、『国家干城谷将軍詳伝』(渡辺義方編、明治20年文栄堂発行)『武人典型谷干城』(城南隠士著、明治44年金桜堂発行)、『子爵谷干城先生伝』(寺石正路編、昭和5年海南中学校発行、『谷干城』(松沢卓郎著、昭和17年天佑書房発行)などがある。こうした中で平尾道雄著『子爵谷干城伝』が本格的伝記として出版されている。以下著者の著作への情熱と本書の評価について述べよう。


 『子爵谷干城伝』は昭和10年4月に冨山房から発行された本文804頁、余録14頁、それに年譜11頁を加えた大著である。著者の平尾氏はいうまでもなく土佐の生んだ硯学で、大正9年(1920)4月20日、21歳で東京代々木の山内家家史編輯所に入所し、三十年間にわたって山内家史料の編纂に従事し、その業を完成させたのであった。稿本は現在山内家から歴代藩主の公紀として刊行されつつある。平尾氏は史料の収集、編述のかたわら『新撰組史』にはじまる著作に熱情をそそぎ、『海援隊始末記』『陸援隊始末記』そのほかの書物を著わし、史料編纂の業が終り、戦後高知に帰ってからも土佐の近世史や近代史に関する著作を相ついで出版し、その数は枚挙にいとまがない。偉大な業績を後進に残して昭和54年5月17日他界されたのは痛恨のきわみであるが、名著は氏の温顔とともに生きている。
 『子爵谷干城伝』もその一つで生前、氏は「この本を書くには苦労しました」と話しておられた。本書の著述については自序で述べているとおり『続谷干城遺稿』の編述を意図されたがその作業は長年月を要するし、遺稿は「常に余りに主観的であって時に繁簡ままならざるに対して」伝記は「客観的な自由と取捨按配の便宣が許されている」という理由に基づいて著作されたのであった。執筆の動機は、山内家家令の仙石稔氏の依頼と勧誘があったからであるといわれていたが、干城が山内家世子豊景公の傳育を依頼されてこれにあたり、平尾氏また豊景公創設の山内家家史編輯所にあって修史の業に従事していたことが干城伝執筆の機縁となったのではあるまいか。さらに同郷の先輩として、小学生時代に干城将軍の訓話を聞いていたことも執筆の決意をかためさせたのであろう。
 それはともかく、史料は『谷干城遺稿』をもととし、干城を知る人たち、元軍医総監飯島茂中将や由良要塞司令官であった汾陽元次中将をたずねて話を聞き、谷家当主の儀一少将夫人に会って『谷干城遺稿』にもれた史料を集め、遺聞・逸話を聞き万全の準備を整えて執筆されたのであった。その執筆の苦労を氏は自伝的随想を記した『歴史の森』の中でこう回顧されている。

史料としては島内登志衛編集「谷干城遺稿」二巻があった。遺稿に頼っても、それから一歩を出なければ執筆の意義はあるまい。そんな思案をかさねながら新史料の採集、分類、吟味、本文の構成、執筆という順序で、私の勉強は脱稿まで二年余続いた。昼間には勤務がある。仕事するのは夜間だが梅暁を告げる鶏鳴を聞いてペンを置いたり、早起きの隣家が雨戸をガラガラあけるころ寝床にもぐりこんだり、しばしば徹夜することもあった。土曜日から日曜日にかけて死んだように熟睡するのが例になって、「ほんとに死んだのじゃないかしら」と妻にゆりおこされたこともあった。こうした苦心の結果生まれたのが本書である。


 本書の脱稿にあたって平尾氏は『歴史の森』でつぎのような感想を述べている。
 谷干城伝を書きあげて感じたことは、将軍自らそれを誇りとする保守主義者だったということである。自記のうちにも「余は保守主義なり」と明言しているほどである。それも頑迷固陋というのではなく、時勢に応じて進歩の姿勢はとる。いうならば現実を見きわめて改善することにはやぶさかでない。だから新奇をもとめて理想を追い、日本を忘れて西洋にあこがれる一部の自由民権論者を自眼視し、自由民権派からは白眼視された。
 自由民権派を白眼視したばかりでなく、条約改正をめあてに西洋にこび、西洋化をあせっていわゆる鹿鳴館時代をつくった伊藤内閣にも敢然と反対した。伊藤首相の配慮によって明治19年2月から翌年6月まで外遊、ウィンナではスタインを訪い、ベルリンではグナイストと会談、ワシントンではアメリカ大統領をたずねて知見をひろめ帰国したが、その政見は微動もしなかった。伊藤内閣の屈辱的な条約改正案には強硬に反対論を主張、農商務大臣のポストをけって下野したのである。
 林有造はじめ自由民権派の闘士たちも拍手して「谷君名誉表彰運動会」を開き、将軍の態度をよろこんだ。大同団結の貴重な存在となって新聞「日本」に拠り、杉浦重剛、陸実、千頭清臣、福富孝季および古荘嘉門ら硬骨の士をひきいて「日本主義」を提唱、日本の論壇を圧倒した「将軍の姿」はすがすがしくあざやかであった。「わが道を往く」人であった。
 この書の評価について、徳富蘇峰は東京日日新聞(昭和15年5月8日)で「本書は平尾道雄君の著作にして、谷将軍其人にとりてはこの一冊は十丈の記念碑にも優るものがある。乃ち谷将軍に対する公的の行歴は勿論、更に凡有る方面に於ける谷将軍を描きて殆ど其全貌を得るに幾きものがある。容易に他に許さない将軍も若し地下より起して之を見せしめば、必ず点頭して我意を得たりと微笑するであろう」と評し、高知新聞は「古書再見」(昭和55年5月18日)の中で「日本の近代を描く青年時代の屈指の名著」と評価し、「その叙述と考証は言うまでもなく、平尾氏一流のもので、日本の近代のあらゆる方面に目を配り、時代の様相を浮び上がらせ、谷干城という人物を生き生きと躍動させる。史家としての平尾氏の手腕にあらためて感動せざるを得ないのである」と述べている。
 これらの本書に対する評価は、まさに肯綮に当たったもので、著者の面目躍如たるものがある。復刻を喜ぶとともに「解題」の蕪辞をつらねた次第である。
 なお郷土出身の気鋭の篤学者で詩人である嶋岡晨氏の近著『反骨谷干城明治の人』(学芸書林発行)が出版されたが、要点をわかりやすく述べてあり、詩文の抄釈もあるので、この『子爵谷干城伝』とあわせて読まれたい。
 
(昭和56年8月 象山社復刻版 あとがきより)